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「ふたりのあいだに在る写真」第2話

押入れの上の段に据えた、引出し式の衣類ケースの上には空間がまだ少しあって、そこには、今はもう要らなくなってしまったCDやDVDをダンボール箱に詰めてしまい込んである。写真機とレンズが入った半透明のプラスティック・ケースはその箱のとなりにあった。ケースの把手をつかんで引っ張り出すと、黒い一眼レフ写真機とレンズ3本が透けて見えた。
畳の上に置いてフタを開ける。
まずは写真機を取り出して、それから「標準」レンズを手にとる。ケースに入っていたレンズは、目の前のものを幅広く写すことのできる「広角」と、自然な状態の人間の視野角に近い「標準」と、それらの中間にあたる「準広角」の3本だった。その中から、これから撮影しようとしている被写体から撮影者である自分までの距離を仮定し、そこから撮った場合の写真をイメージして、ぼくは標準レンズを選んだ。
写真機のレンズ取り付け部にはまっているカバーを取り外して、レンズのほうに付いている保護キャップも外し、接合部を合わせてはめ込む。一体となったカメラ本体とレンズの重みをたしかめながら、レンズの焦点リングを左右に回してみたり、本体上部にあるダイヤルを軽くいじってみたりした。
中にフィルムは入っていないが、ダイヤルの横にある、内部のフィルムを送っていくためのレバーを右手の親指でいちど試しに巻き上げたあと、カメラの底を左の掌で支えて指先を焦点リングに添え、右手で本体を包み込むようにやさしく掴んで、人差し指はシャッター・ボタンの上に置く。顔の高さまで持ってきて右目でファインダーを覗いてみた。居間のすみに置いてある電気スタンドにレンズを向ける。 電球を覆っている網目状になった笠の部分がくっきりと映るようにピントを合わせて、シャッター・ボタンを押した。
このカメラを取り出したのは何年ぶりのことだろう。
可動部品はスムーズに動くかどうか、金属部分に腐食など起こしていないだろうかと心配していたが、作動に関し問題はないようだ。
よし。これなら使えるだろう。
きのうの夜、この部屋で彼女は、
《私の写真が1枚、ほしいんです。ポートレートっていうのかな…、そういう、私の写真を、1枚、見てみたいんです》
と言った。写真を撮ることを以前にぼくが趣味にしていたのを知っていたわけではないのに、彼女はなぜか、ぼくに撮ってほしいと頼んできた。
《あなたの好きなように、ただ私を撮るだけでいいから…》
引き受けるか否か、少しのあいだ迷っているぼくに彼女はそう言ったのだが、その言葉はぼくの気持ちを少しだけ軽くし、そしてぼくは、彼女に撮ることを約束した。


ぼくたちが知りあってから、およそ3か月がたっていた。


大学を出てから12年間、 ぼくは同じ会社で働いている。そこは、広告会社やラジオ局、病院、飲食サービスや販売関係の一般企業などを得意先にしている印刷会社で、はじめはデザイン・制作部のスタッフとして採用されたのだが、経営方針の転換と人員整理に伴い、3年目に外回りのセールスマンとして営業部に転属になった。以来、担当する客から注文をとり、デザインから印刷・仕上げまでの工程を管理し、そうして作られたものを納品するという仕事をしている。数千・数万単位の部数で印刷するポスターやパンフレットが主力の商品だが、封筒や名刺、伝票などの細かな制作物も納めている。
ある日、顧客のひとつである高級中古車販売会社の担当者から名刺の印刷依頼のメールがあった。
社名とロゴ・マーク、整備工場とショー・ルームの所在地がレイアウトされたひな型のデータに、注文に応じた人名と役職を入力して印刷したカラー名刺を日頃この会社には納品しているのだが、それとはまったく異なる、シンプルでありながら重厚で、且つ個性的な名刺が1人分だけほしい、というのが今回のオーダーだった。
しかし、このメールだけでは情報が不十分だ。詳しいことが聴きたくて、ぼくは担当者に会いに行った。
この中古車販売会社には、群を抜いて販売成績の優秀な営業マンが1人いるのだという。その彼が、普段使っている皆と同じ社用の名刺ではなく、自分専用のデザインのものが欲しいと言ってきたということだった。
この会社は、数千万円クラスの希少な外国産スポーツ・カーや、再販価格にプレミアムのついている人気の高級4WD輸入車などの中古販売を主に手掛けている。外資系大企業の駐在社員や、高級輸入車を一種の投資対象として捉えているような人たちが 主要な顧客なのだそうだ。
このような会社のトップ・セールス・マンは、客になってくれそうな人物との新しい出会いの場面で、他とは違うなにかインパクトのある名刺を渡したいと考えるらしい。やはり顧客営業において優秀な人間というのは自分の印象づけに対しここまで気を遣うものなのだなと、ぼくは感心して話を聞いた。


社に戻り、この名刺の件で先方から聴き取ったことを、さっそくデザイン部の男性社員に相談した。あの会社に納めている現在の名刺のデザインは、この男によるものだ。だから依頼のメールを受けた時点で、まず彼に話を持っていこうと決めていた。
テーマは、「シンプルで、重厚。そして個性的である」ということ。これを踏まえて彼は、鉛(なまり)の活字を使った単色の活版印刷を厚口の上質紙に施す、というアイデアを出してきた。
依頼主の営業ターゲットは、欧米出身の人物が多いことがまず考えられる。彼らの多くは漢字に興味を持っている。そんな彼らに向けて、コンピュータの書体ソフトには出せない伝統的な「正楷書体(せい かいしょたい)」の活字を使って、大量生産品にはない、手作りの味わいのある活版印刷の名刺を作るというわけだ。ただし、うちの社は活版印刷機を持っていないので、印刷は外注に頼ることになる。
この名刺を使う敏腕セールス・マンの名は「増子 貴宏」。社名は「明光自動車販売」。一般の名刺に使われるツヤのあるコート紙ではなく、マットで落ち着いた質感の上質紙に黒の単色刷りでこれらの漢字が印刷される ―  。
活版印刷とは、活字を用いたスタンプ(ハンコ)式の印刷技術のことである。作業場にストックされた、大量の金属活字の中から使う文字を選び「版を組んで」印刷する。漢字・かな・カナだけでなく数字やアルファベットの活字も当然ある。特別にこしらえた樹脂製の版を組み込めば、オリジナルの絵柄やマークも印刷可能だ。
デジタル製版・オフセット4色印刷が主流の今日ではしかし、活版印刷は廃れ、この技術を継承している印刷所は非常に数が少なくなっている。ハガキや名刺、招待状や案内状といった少量の印刷物の受注だけで経営を切り盛りしている所がほとんどらしい。ぼく自身も12年この業界で仕事をしてきた中で、活版印刷についてのある程度の知識はあったが、この印刷方式による製作物を実際に納品したことはなかった。
でも、良いアイデアだとぼくは思った。これなら、漢字好きの外国人に限らず、このセールス・マン ― 増子貴宏の営業ターゲット全般にふさわしい名刺になるのではないだろうか。
先方の担当者に、まずは素案を見せて説明がしたい。ラフ・イメージを添えた企画書を作り、ぼくは翌日に再び明光自動車販売のオフィスへ出向いた。
先方の感触は良好だった。この日は増子氏本人がオフィスにいて、一緒にラフ入りの企画書を見てもらうことができ、是非この活版印刷の名刺のアイデアで進めてもらいたい、との言葉をもらった。ただし、会社のロゴ・マークは消し、その分だけ文字を大きく配置したデザインにすること。漢字を強調するのは結構だが、名前だけはローマ字を追加してほしい。電話番号は会社ではなく、自分の携帯電話のほうを載せるように — これらの修正依頼を、増子氏からもらった。


先方からの修正箇所を社に持ち帰り、「直し」を反映させた最終原稿をデザイン部の男に作ってもらった。これを担当者にメールし、了承が得られれば、つぎに、印刷工程の準備へと仕事を進められる。
いちど、実際の印刷の現場を見学に行ってみてはどうですか —  そんな勧めをこの時、彼からもらった。彼には、今回の印刷を発注する業者の伝手(つて)がひとつあったのだ。
彼は工芸大学でレイアウト・デザインとコンピュータによる印刷編集を学んだのち、うちの会社のデザイン部に入ってきている。ぼくより歳は2つほど若く、たしか30を少し超えたところだったと思う。その彼には、活版印刷所に勤めている女性の後輩がいた。彼と同じ大学でタイポグラフィー(文字の配置と書体のデザイン)を彼女は勉強し、デザイン会社に勤務したあと、今は独立し、フリーランスとして雑誌やブックレットの制作の仕事をする傍ら、ある活版印刷所で植字のアルバイトもしているという。なるほど、彼女のことを知っているから、活版印刷のアイデアをすぐに思いついたのかもしれないな……
いいだろう。彼の思惑に従うことにしよう。ぼくは勧めを受け入れ、彼女が勤める印刷所を見てみることにした。


最終原稿への先方からのOKサインは一両日中にはもらえるだろう。それまでのあいだを使って、「河村印刷 有限会社」をぼくは訪ねた。
いらっしゃい。話は聞いています。せまい所だけど、いろいろ見てってください — 見学のことは社長の河村氏に伝わっており、ぼくは、挨拶のあとすぐに現場へと通された。カシャンカシャンと規則的な機械音を立てて動いている2台の小型印刷機の間を抜けて、奥の植字室へと案内される。1人の職人が部屋の中に立っていた。
彼女だった。
社長からの紹介を受けて、ぼくらは挨拶を交わした。同僚からあなたの事は聞いています — ぼくはそう付け加えた。
うちの仕事のことなら、この子はぜんぶ知ってるから、何でも聞いてやってよ — いかにも、まちの小規模企業の経営者といった気さくさで、社長はそう言い残し、事務室の方へと歩いていった。


三方の壁が、人の背丈ほどの高さの木製の棚で埋め尽くされている。そこには、書体や文字の大きさごとに分類された大量の活字たちが整然と収められていた。部屋の真ん中に作業台があって、そこは、原稿をもとにピックアップした活字たちを金属枠を使って組み上げ、印刷をするための刷版(さっぱん)を完成させるために使う場所になっている。
《ちょくじするところをご覧になりますか?》
彼女の言葉がすぐには理解できなかった。ちょくじ?…ちょくじする?……
《すみません。植字のことです。私たちはなぜか、植字のことを“ちょくじ”と言うんです》
植字ならわかる。むかし使われていた印刷用語だ。うちの社の制作部門の中に、文字入力のことを「しょくじ」と言うベテランのオペレーターもいる。
《今ちょうど、ある落語家の、襲名披露パーティーの招待状の原稿がまわってきました。活字を選んで、ちょくじするところを見ていってください》
彼女の横で、活字の拾いだし(文選と呼ぶそうだ)から版の組み付けまでの作業を見学した。原稿を確認してから版が出来上がるまで、30分以上はかかっただろうか。緻密で精巧をきわめたその職人技に、ぼくはすっかり見入ってしまった。
《版が出来たので、次にギャリーをとります》
ギャリー?…ギャリーをとる?
いま作ったばかりの刷版を彼女は、小さなお盆状の、うすい木箱の上に置いた。
《この木皿のことをギャリーって言います。ゲラって言葉、よく使いますよね?。 ギャリーから来てるらしいですよ。この皿を校正機にセットして、ゲラ刷りをします》
ゲラとは、 文字チェック用の紙のことを指す。誤字の指摘や表現の修正のためにゲラを作ることは印刷の工程において欠かせないもので、この単語なら当然ぼくも知っている。ギャリーが変化して、ゲラになったのか……
《変わった業界用語ばっかりで、なんか面白いですよね》
ぼくのほうを向き、そう言って、彼女は笑った。
笑顔の素敵な、綺麗な人だなと、ぼくは思った。


刷り上がったゲラをぼくに差し出して、彼女は言った。
《どうですか》
印字された文字は素晴らしかった。見事な楷書体の活字だった。一つひとつの字の、線の太いところと細いところの按配が、上品さと温かみを感じさせた。思わず、ぼくが作る予定の名刺 ― 「明光自動車販売  増子貴宏」の字面を頭の中に描いていた。ここに印刷を頼めば、きっと良い名刺ができるにちがいない。
ゲラ刷りを見た感想を率直に述べ、あとは、この印刷所が過去に作った印刷物の数々を、彼女に見せてもらった。
あいさつ状・招待状・名刺・料亭の品書き ― 色々な「作品」の説明を受けながら、使われている紙の種類や文字との相性などをぼくは質問した。
《わたし、この仕事、10年やってるんです》
10年か…。大学でタイポグラフィー(文字の配置と書体のデザイン)を学んでいたことはデザイン部の男から聞いていたが、ということは、在学中からずっと、ここでアルバイトをしているということになる。卒業後はデザイン会社に就職し、今はフリーのデザイナーだとも聞いているが、おそらく、印刷デザインの勉強のために、この仕事を彼女は続けているのだろう。植字の技術はもちろん、活版印刷についてこれだけ多くの知識を彼女が持っていることに、ぼくは合点がいった。


見学が終わって、事務室にいる社長にぼくは礼を述べにいった ― 勉強になりました。ありがとうございました。近日中に名刺の原稿を持って来ますので、印刷をお願いします  ―。


事務室を後にし、印刷所から表の道へ出ようとした時、彼女がこちらに来るのがわかった。
《どうでしたか?》
植字室で作業をしている時の彼女は、ゴムか何かで髪を後ろでひとつにまとめていた。だが今は、それをほどいて、まっすぐな状態にしている。その黒く長い髪が、とても綺麗だった。
ぼくはあらためて彼女に礼を言った — 活版印刷の良さがよくわかりました。名刺の印刷をお願いしますと、社長には伝えました。今日は本当にありがとう。
《さっき、うちにいる職人のおじさんに「なんで植字を “ちょくじ” っていうの?」って聞いてみたんです。そしたら、こんなこと言ってました — たとえば職場で同僚に「おい!しょくじしとけよ!」なんて声をかけると、言われた人が食事休憩に出ちゃった — なんてことが、あちこちの印刷所で起こったからなんですって。たぶんウソだと思いますけど…》
そう言って、彼女は笑った。
少し色の落ちたジーパンに藍色のTシャツ。グレーのエプロン。色白で、目も鼻も小さくて、地味な印象だけれど、不思議な魅力を感じていた。


ぼくも笑った。
そうだね。それはたぶん、ウソだと思うよ。
本当に今日はありがとう。
もしよかったら、今度、どこかで、ゆっくり話をしませんか。


《いいですね。じゃあ、連絡先をくれますか》
ぼくは自分の名刺とボールペンを取り出して、裏にメール・アドレスと電話番号を書いて、彼女に差し出した。
《ありがとう。私、りょうって言います。谷口りょうです》


これがぼくたちの、3か月前の、はじめての出会いだった。


(つづく)↓




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