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「ふたりのあいだに在る写真 」第4話

りょうからの連絡はすでにもらっている。
彼女を乗せた電車は、14時を少し過ぎたころに駅に着くようだ。
部屋のそうじは午前中に済ませてある。居間の淡いウグイス色の砂壁を撮影の際の背景として使うため、その周辺に置いてあった電気スタンドやTVボードは取り払い、その他の不要なものは全て押入れにしまっておいた。普段は出したままにしている座卓も座布団も、今日は片付けてある。
13時45分。りょうを出迎えるために、ぼくは家を出て駅へと向かう。
ぼくの住んでいるマンションは、工業地帯の近くの片側3車線の産業道路沿いに建っている。5月21日。日曜日。週末はいつも、近隣の工場や倉庫が休みなので、目の前の道路を走る車の数は少ない。駅へと続く生活道路も人影がなく閑散としている。
ぼくの家で2人で話をした6日前の月曜の夜。その時、自身のポートレートを撮ってほしいと彼女から頼まれ、ぼくはそれに応えることにした。今度のぼくの仕事が休みの日の午後に、この部屋にまた来てもらい、ここで君の写真を撮る — ぼくは彼女にそう約束した。
りょうを乗せた電車が、もうすぐ駅に着く。


都会側にあるターミナル駅発の、臨海工業団地行きの電車が14時05分に到着すると、程無くして、プラット・ホームを歩く彼女の姿が駅舎の脇から見えた。改札口の前へまわって待っていると、りょうが出てきた。大きな紙袋を右手に提げている。
こちらが軽く手を挙げると、彼女も笑顔で左手を振った。
《こんにちは。今日は、よろしくお願いします》
手にしている茶色い大きな紙の手提げ袋をぼくはすぐに引き取った。
《ありがとう。うちのアパートの下にお花屋さんがありますよね?あそこで買いました。なんか…たくさん買っちゃった…》
大きな袋の中には、3つほどの束に分かれた色々な花が入っていた。赤・紫・黄・白・橙など、おそらく5,6種類はあるだろうか。
花については、時季や特徴はもちろん、名前すら数えるほどしかぼくは知らないが、それでも、わかる花が1つだけ袋の中に入っていた ―  これは “カラー”っていう花だったよね 。
《そう。私のところに最初に来てくれた時に、部屋に飾ってたの、覚えてたんですね》
ぼくたちは歩き出した。
およそ2か月前のこと。家で夕食を一緒に食べないかという誘いを受けて、りょうのアパートをぼくは初めて訪れた。彼女の作ったバター・チキンとポテト・サラダを2人で食べ、そのあとはコーヒーを飲んで話をした。その時、部屋のロー・テーブルの上に飾られていたのが「カラー」だった。名前だけでなく、この花の特徴を彼女は親切にぼくに教えてくれた。
花のことだけではない。その日、二人で過ごした時間のすべてを、ぼくはよく覚えている。
あの日の帰り際に、ぼくたちは初めてのキスをした。
だがそれだけでは、ぼくは我慢ができなかった。キスのあと、彼女の着ていたシャツの胸元のボタンに、ぼくは手をかけたのだ。りょうの裸が見たかった。彼女の、普段は隠されている体の部分に触れてみたかった。だが、彼女は拒んだ。ボタンを外そうとするぼくの手を制して、もう少し待ってほしい、と彼女は言った。
りょうはその時、少し泣いていたと思う。
それから約2か月の間、つまり今日に至るまで、ぼくは、キスから先のことを求めないようにしてきた。


りょうは、何故こんなにたくさんの花を買ってきたのだろうか。まさか、部屋に飾るためのぼくへのプレゼントではあるまい。ぼくが今日、写真を撮るために、ここまで来るよう頼んだことを、もちろん彼女は承知している。だとしたら、自分が撮られる際の小道具として用意したものなのだろうか。
この疑問には触れないまま、産業道路沿いのマンションまで、ぼくは彼女と歩いた。


初夏というにはまだ早い時期のはずだが、日差しはもう充分に強かった。ぼくの部屋に着いてすぐに、冷蔵庫からペット・ボトル入りの麦茶を取り出し、コップに注いで彼女にすすめた —  今日は暑いね。
《うん。朝、天気予報で、25度を超えるだろうって言ってました》
ぼくの家は、玄関ドアを開けるとすぐ右に洗濯機置き場と風呂場とトイレがあり、左側にキッチン・スペースがある。それに連なってまず1つ目の部屋があり、そこにテーブルと椅子を置いて、食卓にしている。
少しのあいだ彼女には、ここに座って待ってもらうことにした。
りょうを駅まで迎えに出ているときから、居間とベランダを隔てるガラス窓はカーテンもいっしょに、開けたままにしてあった。しかし、この状態でポートレートを撮るには、部屋に入ってくる日の光が少し強すぎるのではないかと思い、かかっている薄い素材の白いカーテンをぼくは閉めた。そして、台所の脇にあった背もたれのない丸型のパイプ椅子を持ってきて、壁の前の、 眩し過ぎない程度に光がちょうどよく差し込んでいるあたりに置いた。
この日のために、感度100・36枚撮りのカラーフィルムを、会社の近くの「フジサワ・カメラ」で5本、買っておいた。初めの1本は、もうすでに写真機に装填してある ―  すぐに始めてもいいの?
《…はい。でも、少し待っててください。わたしも準備をします》
証明写真のように、体ごと真正面を向いたりょうの姿を撮りたいとは考えていない。なので、座った状態の彼女の上半身が、こちらから見て少し右を向くように、窓側のほうに体を向けて座ってもらう予定だ。彼女とカメラまでの距離は1メートル半ほどは必要だろう。この8畳の広さの居間を目いっぱいに使って、押入れの手前までさがった位置から、ぼくは撮影をすることにした ―  始めようか。


《おねがいします…》
この日の彼女は、細身のチノ・パンツをはき、上は濃紺のボタンダウン・シャツを着ていた。黒く長い髪は、頭の後ろの高いところでひとつに結んでいる。たしか、いつも彼女は、裁縫に使う待ち針の先ほどの小さな丸い、すみれ色のピアスを両耳につけているが、今日はそれをしていない。
写真を撮られる日だからといって特別な化粧をするわけでもなく、普段どおりのシンプルな出で立ちだったが、それこそが、気取りのない純粋な、りょうの人間性をあらわしていると、ぼくは思った。
《ここに座るんですね》
―  そう。体は少し窓のほうに向けてみて……OK。それで、顔と目は自然に、こちらのレンズのほうを見るようにしてね。
《はい。…なんか…ちょっと、緊張しますね…》
無理もないことだと思った。そして、ぼくのほうも、久しぶりに取り出した写真機で、自分の好きな女性の写真をこれから撮るにあたり、かなり緊張していたと思う。
《やっぱり、少し、お話ししてからにしませんか?》
確かに。お互いに、もっと気持ちがほぐれてからのほうが、きっと良い撮影をおこなえるはずだ。ぼくはカメラを手にしたまま畳の上に座り、椅子に座っている彼女に向かって話しかけた ―  ところで、今日持ってきた花は、撮影で使うためのものなの?
大きな紙の手提げ袋に入った花たちは、居間のすみに置かれていた。
《…はい。この花といっしょに撮ってもらおうと思って、持ってきました》
良いアイデアだと、ぼくは思った ―   いいね。そのほうが、ただ椅子に座っているだけより、良い写真になるかもしれないね。
たとえば、束になった何種類かの色とりどりの花を手に持ち、そこにそっと顔を近づけている彼女。その上半身をまず全体でとらえる。カメラは終始「縦位置」にして使うことにする。つまり、ふつうに構えると横長になる撮影フレームを、カメラを90度回転させて構えることで、縦長の構図で被写体を収めることができるようにして撮影する。
そのほかにも、撮る角度を変えて、花と横顔にクローズ・アップした写真も撮ってみる ―  こんな計画が頭に浮かんできた。


りょうは話し続ける。
《「人間」って、この世界にいる動物たちのなかでは、すごく地味な生き物だなって思います》
どういうこと?
《南国の鳥みたいにカラフルな毛で体が覆われてもいないし、ライオンや馬のようにフサフサした“たてがみ”もないし、鹿みたいに立派な角が頭から生えてるわけでもないから「地味だ」って意味です。人の肌の色は、白かったり黒かったりしても大体それ1色だし、顔も体も全体にツルンとして変化が少ないというか…》
つまり、他の動物と比べて、体の色や形状が単調だということ?
《はい。でも、それがいけないって言いたいんじゃないんです。ただ、他のいろんな生き物の持つ多彩さへの「あこがれ」が、昔から人間にはあったんじゃないかって…思います》
りょうの言うことに、ぼくはうなずいた。
《それだから人間は、お化粧をしたり、飾りを身に着けたりするようになったのかなって》
そういうことか…。人がいま、着飾ったり化粧をしたりすることの起源は、自然界にある色鮮やかで複雑な質感を持つものたちに「地味な自分の姿」を少しでも近づけてみようとする行為にあるのかもしれない  ―  天然素材を使った装飾品やフェイス・ペインティングなんかをアフリカの部族が今でもしているしね。
《そうです…。だから今日は、このお花たちといっしょに、撮ってもらいたかったんです》
つまり、飾らない普段着の自分の姿に、花々の持つ色彩の魅力を加えた状態での写真を撮ってほしいということか。彼女が今日、ピアスをしていない理由が、これでわかった。


りょうは椅子から立ち上がって、居間のすみへ移動した。
そして、置いてある紙袋の中から、赤・紫・黄・白・橙 ―  それぞれの色の花を数本ずつ抜き出して、色の偏りがないようバランスよくそれらを一纏めにし、少し大きめではあるが、教会での結婚式で新婦が持つブーケのような花束を、彼女は1つ拵えた。
《綺麗でしょ?》
そう言って彼女は微笑んだ。そして、ふたたび椅子のある位置に戻り、自分で作った花束を持って座った。
ぼくは声をかけた ― さあ、撮ろうか。
一纏めにした花たちの、下に伸びている茎の束のところを右手でギュッと握りしめ、残りの手は、花の寄り集まった部分に軽く触れるような感じで両手で花束を持ち、りょうは座っている。
片膝立ちの状態から、腰をやや浮かし気味にした格好で、ぼくはカメラを構える。彼女は、指示したとおり少し斜めに、体は明るい窓のほうへ向け、カメラのレンズを見るために、顔はこちらに向けている。
彼女も花も、とても綺麗だった。
花束を、胸の下くらいの高さに持ち、穏やかな表情でレンズを見つめる彼女の姿を十数枚分、ぼくは撮影した。レンズの絞りは4。シャッターの速度は1/60。薄いカーテン越しに、彼女の上半身に射し込んでいる日の光の具合を見て、写真機の露出設定はこのようにしてある。
次は、少しポーズを変えて撮ってみることにした ―  花をもう少し、顔のほうに近づけてみて。
りょうは、花の茎の束の部分を握った右手を、みぞおちの高さまで上げた。そして、俯き加減で、視線を花のほうへと落とした。
《こんなかんじですか?》
— そう。
やさしく囁きかけているかのような柔らかな面持ちで花を眺める彼女の表情をもっと大きく捉えようと思い、ぼくは少し彼女に近寄って、カメラを構え直した。
りょうは、ほんとうに花が好きなのだろう。それがよくわかる、やさしい目をしていた。ぼくは再び、十数回シャッター・ボタンを押した。
花束の位置が少し高くなったことで花と顔のあいだが近くなり、アップでも、レンズの画角に収めやすくなった。ぼくはさらに近寄ったあと、彼女の右側面の方にまわり、花を見つめる彼女の横顔にカメラを向け、一枚一枚、写真を撮った。


撮影開始から15分ほどで、36枚撮りフィルムの1本目を撮り終えた ― これから、新しいフィルムに交換する。少し休憩しようか。
2本目のフィルムを写真機に装填したあと、閉じたカーテンの端を抜けて、ぼくはベランダに出た。少しだけ外の景色に目をやり、そしてエアコンの室外機の上に置いてあったタバコの箱から1本を取り出した。
《あの…ちょっといいですか?》
居間から彼女の声がする。ぼくはカーテンを開けて顔を覗かせ返事をした。
《これからしばらくの間、部屋の中を見ないでください。それで…、5分たったら、ここへ戻って来てください》
りょうは、これから何をするのだろうか ― うん、わかった。じゃあ、外を向いて、待っているよ。
多少なりとも動揺を覚えつつ、目の前の倉庫のほうを向き、ぼくはタバコに火をつけた。
下にある産業道路を行き交う車の音は小さく、ベランダは静かだった。約束どおり、5,6分が経過したのを見計らって、ぼくは部屋の中に戻ることにした。すでに彼女は、椅子に座って待っていた。撮影を始めたときと変わらず、背筋をピンと伸ばし、花束を胸に抱いて再びそこに座っている。だが、先程までとその姿は、大きく変わっていた。


頭の後ろで結んでいた黒い髪はほどかれて、後ろの先端は肩の下、前は鎖骨のあたりに来るまで真っ直ぐに下ろされていた。そして、着ていた濃紺のボタンダウン・シャツを脱ぎ、乳房を覆う下着も外していた。腕も、肩も、腹も、腰も、露わな状態になっている。肌の見えないところは、チノ・パンツをはいた下半身と、花束を抱えた胸のところだけだった。
《…これで撮ってもらえますか》
黙ってうなずくだけで、ぼくは精一杯だった。
カメラを構える前に、これまで見ることの叶わなかった彼女の白い胸元や肩、そして二の腕を、ぼくは何も言わずに少しのあいだ見つめていた。
《恥ずかしいから、はやく撮ってください!》
そう言って、りょうは笑った。こんな屈託のない表情は、この日はじめてだったかもしれない。
彼女の笑顔に助けられ、平常な心持ちを取り戻すことができた。
これまでとは違い、こんどは、カメラを構えるぼくに対し真っ直ぐに体を向けて座るようにと彼女にお願いした。上体をひねったりせず、顔とともに体も正面からストレートに撮りたいと思ったからだ。頭と顔、そして花に隠された胸をフレーム内に大きく捉えようと、ぐっと近づいてピントを合わせ、ぼくはシャッターを切った。


おそらく20枚分ほどを撮り終えたところだった。
りょうの表情に何か意を決したような真剣さが突然に浮かんだ。それに気圧されて、構えていたカメラを思わずぼくは一旦下げ、彼女の目を見た。
りょうは何も言わず、座っている膝のほうに、持っていた花を静かに下ろしはじめた。徐々に彼女の胸全体が、ぼくから見えるようになっていく。
そして、花束は取り除かれ、いま彼女は、上半身に何ひとつ覆い隠すものがない姿で、ぼくの前にいる。


《わたしの体、生まれつきこうなんです》
りょうの体には、左の乳房がまったくなかった。右は豊かに膨らんでいるのだが、左胸は乳首もついておらず、まるで幼い男の子のように平らで、肋骨が浮き出ていた。
《どう思いますか?》
何も身につけていない上半身をぼくの前にさらけ出したまま、りょうは椅子に座っている。彼女の目がみるみる赤くなり、涙をこぼさんばかりとなっている。
胸のことについて聞かれていることは明白だった。だが、それについて何ごとも言う気持ちがぼくには起きなかった。
ほんとうに、ただ、ぼくの伝えたいことだけを言葉にしようとした。
カーテン越しの光に照らされている白い肌が美しいと思った。細い二の腕へと繋がっていく肩の線が魅力的だった。引き締まってはいるが柔らかそうな腹と腰は、思わず触れてみたくなるほどだった。

だからぼくは、とても綺麗だよ、とだけ、彼女に伝えた。

     

       (つづく)↓




















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