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まちにあるものたち

大師線の鈴木町駅に停車しているあいだの車内で、自動ドアの開いている出入口の脇に立って出発を待っていると、さとう醤油を焦がしたような甘いにおいを外の空気から感じる。それは例えば、駅の近くの売店から流れてくるというような局所的なものではなく、もっと、この一帯に広く漂っているような感じで、におってくる。

京浜工業地帯の一角を担う神奈川県・川崎市。その中心にある川崎駅から多摩川の最下流に沿うようにして京浜急行電鉄の大師(だいし)線は走っている。
「鈴木町」(すずきちょう)は始点である川崎駅から数えて2つ目の駅だ。

なぜ、鈴木町では甘いにおいがしているのか。

以前、大師線沿線の工業地域に暮らす人にそのことを訊くと、この駅の近くにある大きな食品工場では家庭用のうま味調味料を製造していて、その原材料である「グルタミン酸」の甘い臭気が一般の地域にまで流れ出てきている ―  そう教えてくれた。


この駅で停車中に、このにおいを感じることで、ここは製造業の都市・川崎であるということを今いちど識(し)ることになる。

春の終わりの、あたたかな日の午後。
今日は、川崎駅からこの電車に乗り続けて、終点の小島新田(こじましんでん)駅まで行くつもりだ。

大師線の終着地点である小島新田というところは、多摩川の河口部に近い。
街をすこし離れて、水が見えるところへ行きたくなったときは、この電車に乗って、川に行くことにしている。


周辺の工場に勤める従業員たちの送迎バス乗り場があるため、終点・小島新田駅は、平日の朝夕に限っては、結構な乗り降りがあるようだ。
しかし今は、水曜日の午後3時なので、駅前の小さなロータリーに、人はあまりいない。

駅前を離れ、川を目指し、まずは北東に進む。
赤茶色のコンテナ車両が連なって停まっている貨物線路ぞいの道路を歩く。この道を15分ほど行けば、川に出られる。

途中で、片側2車線の一般道と自動車国道の高架が一緒になった太い道を横切ると、その先に多摩川の高い土手が見えてくる。川は、もうすぐだ。


道を進んでいき、土手にある階段を昇って、上にあがった。

多摩川の下流部は河川敷が広くて、川の水はまだ遠くにしか見えない。
さらに遠くの、向こう岸の一帯に、5階建てほどの高さの箱型の建物が幾つも並んだ工場群が見える。その箱型には、煙突が出ているものや、「***製作所」の大型サインが上にくっ付いているものがある。確か、あちら側は東京の羽田空港の近くだったはずだ。
ここから橋が見える。そこを自動車が、車体に受けた陽射しの反射光を明滅させながら走ってゆく………

土手の傾斜を下りて河川敷を進み、平坦な河原に向かった。
ここに立って眺める川は、太陽の光をキラキラと反射して、きれいだった。

だが、水際まで進み、しゃがんで見てみると、その水はまるで、24色セットの水彩絵の具のチューブを全色少しずつしぼって溶かしたような色をしていた。


この場所で、履いていた靴と靴下を脱ぐ。

下流といえば砂地が多いはずだが、ここには何故か、水際に小岩が点在している。
浅瀬から少しずつ水に入っていく。そして、いくつかある小岩の中から座るのに丁度よいものを見つけて、川の水に足を浸したままで、そこに腰掛ける。


この場所に、こうしているのは気持ちがいい。
暑い日ではなかったが、水の冷たさが丁度よい。

足の指先で川底を擦るようにして水をかき回すと、澱んでいた泥の温かみが足の甲、そしてアキレス腱のほうにかけて上ってくる。「もわっ」として、何だかそれが、こころよい。

この快感は、たとえば、田舎の美しい山間の冷たい清らかな川の浅瀬などでは決して知覚することのできない類のものだと思う。


濁っているからこそ、いまの自分の心に「ピタッ」とくることがあるのだ。


この、濁った川を見ながら考えた。

「街」も、濁ってるじゃないか、と……


多くの人間たちが集まって、機能的に、合理的に、そして経済的に暮らすことができるように、現代の「都市」は成り立っている。規模の大小はあれど、全ての都市がそうだといって差し支えないだろう。

そしてその中で、ターミナルや大きな駅など  ―  とくに人々が集まるところに、繁華「街」や歓楽「街」や商店「街」ができる。
この「街」とは、何なのだろう。

機能・合理・経済 —  これらの追求のために存在する都市という空間にありながら「まち」だけは、何かすこし、違うと思う。
機能的でも、合理的でもない、そして経済にも関係がないものが、まちには、在る、ような気がする。

それが何かは、わからない。
目の前を過ぎ去る、男と女の後ろ姿なのか。ひとの欲望をかき立てる、数々の広告看板なのか。濡れた路地裏にあるゴミ置き場なのか。走り抜ける車と、信号を待つ人の群れなのか。あるいはただ、遠くから眺める、まちの全景に、それはあるのか……


ただ、これだけは言える。
街は ― まちに「ある」ものたちは、言い知れない、さまざまな感触をこちらに与えてくれる。そして、自分の感情を心地よく刺激してくれる — そのためのファクターとして、それらは「ある」。

これが、街にあると感じる、「濁り」なのではないだろうか。
街は、にごって、いる…


清潔な水では決して得ることのできない居心地のよさを、都市を流れる川の「濁り」によって感じることが今、自分にはできている。

小岩に座ったままで、足の指先で川底を、もう一度かき回してみた。澱んでいた泥によって、足元の水が、さらに濁った。


あたりを見まわす。
誰かが捨てたカップ麺の空容器が流れていくのが見える。少し先の淵(ふち)に、ビールの空き缶やグチャグチャになったスナック菓子のパッケージが浮かんでいる……


立ち上がって、裸足のままで河原を歩いた。


草むらの影に、ポルノ雑誌がまとめて何冊か捨てられてあった。
そのうちの1冊から、表紙が風でめくれたはずみに、巻頭ポスターのピンナップ・ガールの顔が、不意に見えた。 

彼女がこちらに微笑みかけている。


そろそろ、「街」へ戻ろう。

                     (おわり)
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