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電話

 退勤直後、スマホが5回鳴動。あぁ、また、迷惑電話か、と思いつつ画面を見ると、そこには父の名が。何事かと慌てて応答する。しごくのんびりとした口調で、父が話し始める。
 父には姉が二人いる。私の名付け親であった伯母は既に鬼籍に入っており、もう一人は年を経るに従い饒舌に拍車がかかっている。昨年の母の葬儀の際も、だれかれ構わず憑かれたように話しかけていた。この伯母が私の近況をしつこく聞いてくるので、私は少し離れた場所に居るようにしていた。どうやら伯母はそれを気にしていたらしい。何か伯母に対して嫌なことがあったから、私が伯母と話さなかったのか?と父が問う。
 何もない、気のせいだ、葬儀の席で談笑もないだろう、と伯母の疑惑を否定しつつ、私は父の状況を聞き返す。すると父は、思いもかけないことを私に問うた。「熱はもう下がったのか?」「大丈夫か?」と。一瞬何の話かわからず、そして気づく。母の納骨の日のことを問われているのだ。
 あれは数ヶ月前の休日だった。私はお供え用に和菓子を買い込み、早朝から移動するつもりでいたが、前夜発熱したため、行くことを断念したのだった。父は、その時のことを未だに気にかけていた。発熱の原因は不明だったが、幸いすぐに復調し、仕事に穴をあけることもなく日々を過ごしていたため、父が心配しているなどと思いもしなかった。
 10分ばかり電話で話し、父が納得してくれたので、通話を終え、帰路に就いた。自転車を漕ぎながら、父の言葉を反芻する。母を亡くして、心が弱ったせいで、父の態度が変わったのかもしれない。総じて父は、幼い私に冷淡だった。
 生前、母が私に面と向かって「お父さんはお前が嫌いだから」と口にしたことがあった。理由はわかっている。幼い頃から私が心身ともに弱かったせいだ。祖母以外の家族は、常に「お前は弱い」「ことのすにならん」などと私に言った。地場産業に従事し、家内労働で日夜必死に食い扶持を稼いでいた当時、頻繁に発熱する娘は「金食い虫」だった。両親から「要らん子」と言われもした。
 そしてまた、私の性格も、親にとっては癪に障るものであったらしい。口下手な父は特に、口ばかり達者な娘を「生意気な」と叱った。「お前はひとこと多い」と窘めた。とにかく田舎から出たくて勉学に励む日々、「おなごが学問したって生意気になるだけじゃ」とことあるごとに私を貶した。どれほど良い成績をとっても、そのことで親から褒められた記憶は一切ない。
 親から肯定されないまま成長した事実は、私の中に色濃く影を落とし、名付けがたいある種の渇望を生じさせた。その「穴」は、何をもってしても埋められない。なのに埋めようとして虚しい努力を繰り返してしまう。渇望は、私が自己表現にこだわる動機となり、原動力となった。何かを吐き出さずにはいられない衝動、業が深いとはこのようなことを言うのかもしれない。
 今、俳句の世界に身を置き、自身の伝えたいと感じたことを十七音に置き換えるようになった。俳句を詠もうとする時、私は常に見えない誰かを想定している。その誰かに私を知ってほしくて、理解してほしくて、肯定してもらいたくて、必死に言葉を紡いでいるのではないかと思ってしまう。まるで海に降る雪のようだ。降って降って降って・・・溶けて溶けて溶けて・・・いつまでも繰り返す。
 父からの電話は、幼かった頃のことを思い出させ、私を苦しくさせた。が、同時に、温もりも与えてくれた。年月を経ることで、父と私の関係性が変わったのかもしれない。やがて否応なく訪れる別れ。親孝行のひとつもしていないが、せめて、父に対して優しい娘でありたいと思う。

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