シスジェンダーを演じること

 Xジェンダーという性別で生きていると、シスジェンダーを演じなければならない場面に、度々遭遇する。Xジェンダーに限らず、シスジェンダー以外の人々であれば、心当たりはあるだろう。
 性的マイノリティというのは、見た目ではわからないことも多い。加えて、体の性別は男か女しかないこともあり、諸々に登録されている性別と性自認が一致していないことも、往々にしてある。そうなれば、仕方ないことではあるが、他者からはシスジェンダーと思われ、そういうものとして扱われてしまうのである。
 それら全てに反発し、自身はシスジェンダーではないのだと主張し続ければ、いつかはそう扱われなくなるかもしれない。だが、常に反発し続ける労力と、その効果は、悲しいかな、とても見合っているものではない。無論、前者の方が圧倒的に大きい。
 女性限定で情報共有がされたとき、わざわざ自分を含めるなと伝えるだろうか。女子トイレ、男子トイレ、障害者用トイレしかないとき、わざわざ障害者用トイレを使うだろうか。男女比半々で遊ぼうと言われ、女性側に含められたとき、わざわざ女性ではないからやめてくれと言うだろうか。
 日常生活を送る中で、あまりにシスジェンダーとして扱われる機会が多いために、いちいち否定を繰り返していたらきりがない。たとえばずっと付き合っていく相手であれば、日々伝えることも大事だろう。しかしながら、職場のような定期的に所属コミュニティが変わってしまう場などでは、異動の度に主張を繰り返さなければならない。たとえ頑張って理解を得たとて、数年後には脆く崩れ去るのだ。
 そんな状況で、常に、全方位に、性自認を主張し続ける気力は僕にはなく、結局、譲れない場面以外では、シスジェンダーを演じがちになってしまう。
 人間の慣れというのは恐ろしいもので、最初は嫌な気持ちばかり抱いていた演技も、いつしか息をするように行っている。シスジェンダーとして扱われることに不快感は覚えるにしても、自分自身が演技をしていることに対しては何とも思わなくなる。
 そうなってきて、ふとした瞬間に思うのだ。心がすり減って、演技を演技とすら思わなくなっているのだろうか、と。
 シスジェンダーを演じなくても辛い。シスジェンダーを演じても辛い。がんじがらめになった心は、考えることをやめる。そうして最終的には、シスジェンダーとして扱われることすら、受け入れてしまうのかもしれない。
 そう考えると恐ろしさに身震いしてしまう。さすがにないと願いたいが、自分で防ごうと努力することも大事なので、こんな記事を書いて、片隅で抵抗してみたりしている。
 どうか少しでも早く、全ての性別の人々が自然に生きられる社会になるよう願ってやまない。


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