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『Multilingual Subject』 (C.Kramsh) 第1章 5-3まで

第1章 記号化する自己(The signifying self)

この章では、学習者が象徴的な形式(Symbolic Forms)を通して、行動したり行動されたりする「魔法」を体験する方法を探る。この体験の多くは知覚的なものであり、聞いたり読んだりする発話の音、形、リズム、そして自分の体が新しい音を発し、新しい形をページに描くことの理解から生まれる。

太字強調、引用者による『Multilingual Subject』 (C.Kramsh)pp62

この章でKramshは、これまでの言語学習者観と第二言語習得研究での記述に対する批判的な視点を明らかにしています。
前者(言語学習者観)については、言語学習者/非母語話者が『目標言語の運用知識や規則に対して全く無知な状態であるというこれまでの言説への批判です。
また、後者(第二言語習得研究での記述)については「言語を学ぶということは、頭の中で、あるいは2つ以上の頭の間で、互いに協調しながら達成される、問題解決や戦略的思考における、主に知的で実体のない訓練であると考える」にすぎない、という批判です。
(『Multilingual Subject』 (C.Kramsh)pp63)

こうした視点から、以下の3冊の言語学習者の回想録を分析対象とし、
Kaplan, A. 1993. French Lessons: A Memoir. Chicago: University of
Chicago Press.
Watson, R. 1995. The Philosopher’s Demise: Learning French.
Tawada, Y. 1996. Talisman. Literarische Essays. Tübingen

彼ら自身の外国語学習についての語りに注目し、その学びを解釈することの重要性を示していきます。

2.2 知覚的類似と類推的思考
この節では 改めて学習者が多言語話者ゆえに発揮される独自の解釈により、目標言語との関わりにおいてその言語に「主観的な価値」をいだくということが書かれています。

言語学習者の経験に対する解釈に耳を傾けることは、言語学習者やバイリンガルの個人にとって、言語は必ずしもそれが指しているように見えるものを意味するわけではないという可能性に私たちの注意を向けさせる。学習者は2つの意味のレベルを使い分け、どちらか一方を表現することができる。彼らの新しい言語との関わりは、しばしば主観的な価値を持ち、それは従来の意味の上に構築され、欲望、記憶、投影が本来の意味の本質的な構成要素となったために、それを変容させるのである。

太字強調、引用者による『Multilingual Subject』 (C.Kramsh)pp68

言語学習者にとって(詩人や広告の専門家にとってそうであるように)、
意味は必ずしも「思考から言葉へ」ではなく、「言葉から思考へ」と流れていく。

太字強調、引用者による『Multilingual Subject』 (C.Kramsh)pp69

なんとか私が理解できたのは、以下の英語を母語とする
ドイツ語学習者についての以下の部分です。

3 言語学習者の日記における記号とその意味

外国語教室に通う一般の語学学習者にも、よく似た証言が見られる。たとえば、Belz (1997 and 2002a)から引用した次のデータを考えてみよう。これは、ベルツが中級ドイツ語の授業で生徒に書かせた多言語日記と、その文章についての生徒の回顧的考察からの抜粋である。英語を母語とする生徒の一人は、ドイツ語の二重記号ßの視覚的形態に、複数の珍しい意味を見出した。
抜粋1.12で生徒が認めているように、同じßでも、あるときは荒々しさを意味し、あるときは流動性を意味し、またあるときはもつれを意味する。彼は自分の主観的な感情や経験を記号ßに投影し、以後このドイツ語は「ストレス」だけでなく「感情のもつれ」を指すようになった

太字強調、引用者による『Multilingual Subject』 (C.Kramsh)pp77

さらにKramshは以下の節で記号論と認知言語学からのモデルを用いて
それを明らかにすることを試みます。

5 記号論:自己の象徴モデル

言葉は、私たちが自分自身を知り、定義し、人々や出来事に対して
どのように行動するかに影響を与えるだけでなく、
以前には存在しなかった意味をももたらす。
情報を伝えるだけでなく、感情を引き起こし、情報以上の感情を形成する。そうすることで、記号は、記号の作り手であり使い手である私たち自身に
与える意味を形作るのである

太字強調、引用者による『Multilingual Subject』 (C.Kramsh)pp84

そして言語を「道具」とみなす言語観にも疑問を投げかけて、
論を進めていきます。

5.1 意味づける自己

言語を、世界を表象したり、世界に作用したりするための「道具」であるというメタファーが広まったことで、あらゆる道具と同様、言語は道具の使い手から独立しており、ペンのように、書き手のアイデンティティに影響を与えることなく、取り出したり、置いたりすることができるという考えが広まった。このような言語観は、ポストモダンで構成主義的な伝統を持つ学者たちによって疑問視されてきた(ラトゥール1999;第6章も参照)。

太字強調、引用者による『Multilingual Subject』 (C.Kramsh)pp84

Kramshの批判する「言語=道具観」の理由についての説明がこの後に続きます。が、彼女がこれまでにも述べてきた「言語がは象徴的な形式である」
という大前提に立てば、言語の使用者はその言語から決して切り離されるものではないということはかろうじて分かります。

この後も記号論の視点から分析と解説が続きます。
この節では、新たな外国語の単語が学習者と(その学習)「言語との初期の情緒的接触として、生徒とL2およびL1との関係を彩り続ける」
という文字通り情緒的な(彼女の言う「主観的な」??
言葉の学びの側面を強調しています。)

が彼女の使う「指標」「指標的意味」「指標的解釈」という言葉に
私の理解が追い付かず、今回はいったんここまでとします。