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エヴァンゲリオン批評③ 〜日本は「私」を獲得したのか〜

庵野が「私」を獲得するための儀式の映画『式日』

『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』は、シンジ、アスカ、綾波、カヲル、ゲンドウ、人類、使徒、90年代の若者たちすらも解放、救済し完結しました。
TV版、旧劇場版でエヴァが完結しなかったのは、当時の若者たちが「現実に帰る」ことを拒否したことが理由でした。だからエヴァは完結することが許されず四半世紀にわたって円環の物語を続けてきました。

つまり日本が「私」を獲得し「近代」に向き合わない限り、エヴァからの解放はあり得ないのです。

エヴァを製作している期間の庵野の作品に着目すべき作品が2つあります。2000年公開の実写映画『式日』と2016年の『シン・ゴジラ』です。

『式日』は旧劇場版エヴァンゲリオン製作の果てに精神が壊れてしまった庵野に対し、ジブリの鈴木敏夫Pや徳間康快社長が提案、後押しして製作された映画です。映画監督の岩井俊二が庵野本人をイメージした役で出演した難解なアート映画であり、庵野自身も「興行的に儲からない。赤字になる。」と言って製作を固辞しようとしましたが、それでも是非とジブリが後押しした製作されたという経緯がある作品です。

この『式日』は構成的にはほぼエヴァです。
主人公の「カントク」は庵野自身が想定されており、大人になれなかったシンジという感じ。そしてもう一人の主人公の「彼女」は母親に捨てられて深い傷を負っています。この「彼女」といキャラクターは多くのシーンで赤いものを身につけており、アスカをイメージしていると思われます。

『式日』は終始TV版エヴァの最終話を見せられているような作品ですが、「私」を獲得しようとしてもがくアスカをシンジが優しく包み込むような映画ですので、シンジはアスカと結ばれなきゃダメだろ!などと憤っているオタクはもうこっちを見ればいいと思います。

エヴァに乗ることが胎内回帰であると先ほど述べましたが、こちらはバスタブに入ることを胎内回帰としてイメージしていると思います。さらにシンエヴァで描かれた宇部新川駅付近、JR宇部線の線路がこの作品でも度々登場します。道が分かれる線路を描くことで、庵野の人生をかけたテーマ「現実に帰れ」問題を表現しています。

アニメーションは余計なものは排除でき、自分の好きなものだけで構成できる神になれます。ただ実写の場合は余分なものが画面に映り込む可能性がありますし、俳優が自分のイメージ通りの演技をするかは分かりません。もちろんアニメ製作も多くのスタッフとの共同作業にはなりますが、アニメーションの世界の内部はある意味では自分だけの世界です。しかし実写は他者のいる世界です。庵野個人はこの『式日』という映画を撮ることで、他者のいる世界を受け入れられたと言えます。しかし、この作品は「100人に1人がいいなと思ってくれればいい」と思って撮った極めて個人的な作品です。庵野が社会に向けて製作した実写映画は2016年の『シン・ゴジラ』でした。

日本映画史上最大の父殺し『シン・ゴジラ』

『シン・ゴジラ』は庵野史上最も大規模な作品であり、日本映画史においてもかつてない規模のない映画でした。ただ金をかけただけでなく、ハリウッドでも使われる高性能シネマカメラからiPhone、GoProに至るあらゆるカメラを使用し、編集は映画編集でよく使われるAvidではなく、YouTuberやテレビディレクターなどが使うことの多い、使い勝手のいいPremierという編集ソフトで行われるなど、あらゆる意味で前例のない映画でした。

この『シン・ゴジラ』もほぼエヴァでした。

エヴァを前述の通り、胎内回帰、父殺し、自我の発露と「私」の獲得のための物語と考えたときに、『シン・ゴジラ』は本編開始わずか1分でエヴァと同じ話であることを宣言するかのようなシーンがあります。

ゴジラを生み出したことが示唆される牧博士の船内に、ほんの一瞬宮沢賢治の『春と修羅』の本が映ります。『春と修羅』は自我の芽生えと葛藤を描いた詩集です。賢治の妹が亡くなった際に書かれた詩であり、賢治が自らの自我を鎮めるために描いたものです。人間は自然の一部に過ぎないことを分かっていながら、妹の死を自然の摂理として受け入れられない自らの自我との葛藤、これが『春と修羅』なのです。

有名な一節が以下の一節です。

わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)

「私」は特別な存在ではなく、流れては消える照明の電流と同じだということ。自分の存在は自然の一部に過ぎないのに、自我が芽生えているが故に苦しいという近代に移り変わる時代の賢治の苦しさえを表現した一節です。

これを『シン・ゴジラ』に当てはめてみると、

ゴジラという現象は背中から青い照明のような光線を出す(あらゆる抑圧されて透明になった自我の幽霊たちの複合体)

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ということになります。

牧博士は、妻を放射能汚染で亡くしたことで、人類と国家に復讐するために放射能の怪物であるゴジラを利用しました。これはエヴァのコアに妻の魂を取り込まれたので、エヴァを使って人類を巻き込んだ人類補完計画を実行に移そうとするゲンドウの行動に酷似しています。

ゴジラは意思疎通が不可能な他者の象徴=使徒であり、抑圧された自我の象徴=エヴァパイロットです。ラストシーンでゴジラの尻尾から突出し凍結された人型の謎の生命体はまさに抑圧された自我です。

エヴァQでシンジの暴走した自我がフォースインパクトを引き起こしたように、ゴジラの尻尾からは人型の生命体というインパクトを引き起こそうとしていたのです。人類は直前でその自我を凍結しましたが、この自我と向き合っていかなければならないという形で映画は終わり、回答をシンエヴァに先延ばしにしました。

ゴジラが他者と自我の複合体であるならば、ゴジラの行動目的はなんだったのでしょうか。それはエディプスコンプレックスだと考えられます。

庵野は製作にあたり、製作・配給を主導した東宝からあるルールを課されていたそうです。

①近隣諸国の国際情勢については劇中での明言を避ける

②皇室に関しては一切触れてはならない

①に関しては要望であり、②に関しては厳命であったそうです。このルールの②は実はかなり大きな意味があります。

天皇について言及してはいけない。これは日本社会の暗黙のルールです。もしタレントが天皇を批判したり、報道番組が天皇に最高敬語を使わなかったら、コテンパンに批判され下手すれば命を狙われたり、テロの標的になる可能性があります。恐らく発言者は表舞台からの干されるのは間違いないでしょう。実際に過去に天皇を批判したり、風刺した出版社やタレントが右翼団体から脅迫や攻撃にあうことはしばしばありました。本来民主主義国家である日本では、天皇に対する批判や風刺は自由に行われ、最高敬語を使う必要もないはずです。これは菊タブーと呼ばれています。

庵野はこの言われなき厳命に対して「はいそうですか」と従うことを拒否しました。表向きは天皇には一切言及されず、内閣の大臣が全員殺された内閣総辞職ビームの際も、天皇など存在すらしていないかのように扱われます。
最終的にゴジラは東京駅丸の内口で動きを止めますが、その目と鼻の先は皇居であり、ゴジラが歩みを止めなかったら皇居を踏み潰していたのではないでしょうか。

ゴジラが蒲田に上陸した際の形態、通称「蒲田くん」は手がなく、上陸後血を吐き、海に引き返すいわゆる「奇形」でした。

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これを見て連想させられるのが、日本神話において天皇の先祖と呼ばれるイザナギノミコトとイザナミノミコトの間に最初に生まれたとされる水蛭子(ヒルコ)と呼ばれる神です。

このヒルコはイザナギとイザナミの間に不具の子として生まれます。具体的な特徴は書かれていないものの手足が未発達であったという説もあります。このヒルコは不具であったために小舟に乗せて海に流したと言います。

この小舟のイメージは冒頭の牧博士の小型船のイメージとも共通します。

多くの神話では、流された神の子は拾われて育てられ、父殺しを行ったり、神になったりするまでが描かれていてることが多いですが、ヒルコに関しては流されてそれっきりなのです。貴種流離譚の中盤以降がキレイに欠落しています。

さらにはイザナギとイザナミの子供たち、アマテラス、ツクヨミ、スサノオは三貴神として祀られますが、最初に生まれたヒルコと、同じく不具としてヒルコの次に生まれたアワシマは子供としてカウントしないという酷い扱いをされています。三貴神と比べるとヒルコとアワシマを祀る神社は全国でも少数しかありません。

手がなく自立歩行できない蒲田くんは、蒲田に上陸し、第一京浜を北上し品川区に入ると、二足歩行になり完全体に近づいていきます。そして皇居のある丸の内方面へと進んでいきます。

これを日本神話の欠落したヒルコのエピソードに当てはめるなら、流されたヒルコが成長して父親殺しに戻ってきたと捉えることができるでしょう。ゼウスが父クロノスを殺しに戻ってきたようにです。

そしてヒルコにとっての父はイザナギであり、ゴジラにとっての父とはイザナギ・イザナミの子孫とされる天皇であると考えることができます。

天皇は日本国の象徴、まさに父親的存在です。ゴジラはエディプスコンプレックスを抱え、父殺しを行おうとしていたのではないでしょうか。日本社会が自我に向き合い「私」を獲得するためには、天皇の存在に向き合う必要がありました。少なくとも庵野はそう考えたのだと思います。日本が天皇制を断念するにせよ、適切な形にするにせよ、向き合わなければ日本は「私」を獲得することはできません。

ゴジラは皇居の目と鼻の先、東京駅丸の内駅舎で歩みを止めます。
天皇という大きくて温かい存在に守られて、自我に向き合うことを放棄した日本はこれからどうしていくのか、そう言われているように感じました。

庵野は天皇を描くことなく、天皇を描いてみせたということも特筆すべきでしょう。

「父にありがとう。母にさようなら。」と言える日が来るのか

島国であり、周囲との交流が少なかった日本は、明治に初めて「私」の必要性に迫られ、欧米列強の「私」を代替することで補ってきましたが、それも敗戦で失い、高度経済成長期の「日本スゴイ!」という「私」もバブル崩壊によって失われました。庵野はエヴァ、式日、ゴジラを通して自分だけでなく、日本の国としての「私」の獲得を目指していました。

『シン・ゴジラ』で社会に現実に向き合うことを再度提示した庵野は、シンエヴァで円環の物語に終止符を打ち、作者の役割から自らを解放しました。しかし、現時点で日本は「私」を獲得して他者と向き合っているわけではないのです。このまま「現実に帰る」ことを拒否し続けるのか、真(シン)にエヴァンゲリオン(現実から守ってくれる母)のいない世界に向き合い、「父にありがとう。母にさようなら。」と言えるようになるのかは僕たち次第なのだと思います。

まとめるならば

TV版エヴァ→現実の世界にいてもいいんだよ。現実に帰れ

旧劇場版→現実に向き合えって言ってんだろ、気持ち悪いな

式日→庵野自身が他者を受け入れる
シン・ゴジラ→(社会全体に対して)自己に、他者に、向き合え

新劇場版→全員救済。現実の僕たちの選択は僕たちに委ねられる

シン・ウルトラマン→???

シン・仮面ライダー→???

庵野が企画、脚本を務める予定の『シン・ウルトラマン』と監督予定の『シン・仮面ライダー』で、自我に対する新たな物語を始めるのか、それとも全く新しい問題に取り組むかは分かりません。しかしエヴァンゲリオンの物語はこれで完結と見るのが妥当でしょう。これ以上ない完璧な終わり方で、映画史上他に類を見ない完璧な終劇でした。


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