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アカデミー賞総括① ウィル・スミスビンタ事件と『最後の決闘裁判』

長いこと仕事が忙しく、noteが更新できませんでした。
4月は少し余裕がありそうなので、毎週書いていこうと思います。

今回から3週かけてアメリカのアカデミー賞について個人的な感想を書いていこうと思います。
本当なら、受賞作についてだけ書いていきたいのですが、受賞作の栄誉を覆い隠すほど盛り上がってしまったウィル・スミスビンタ事件が起きてしまったので、それについて触れないわけにはいかないでしょう。

絶対に許されない暴力

かなり話題になっているので、ほとんどの人がこの事件を知っていると思いますが、簡単に説明します。

アカデミー賞の授賞式にて、コメディアンで俳優のクリス・ロックがウィル・スミスの妻のジェイダ・ピンケット・スミスの頭髪をネタにしたジョークを飛ばしました。ジェイダ・ピンケット・スミスは2018年に脱毛症を公表していました。
このジョークを聞いたウィル・スミスは激昂し、ステージに上がって聴衆の目の前でクリス・ロックをビンタしました。

この行為は「妻の名誉を守った男らしい行為」とウィル・スミスを擁護する声や、暴力行為に走ったウィル・スミスを非難する声が上がり、賛否両論となりました。

個人的な見解を端的に述べさせてもらうなら、ウィル・スミスの行為は賛同できません。絶対にノーです。

その理由は以下の4つの理由からです。

①暴力はいかなる場合も許されない
「大切なものを守るため」だから暴力行為が賞賛されるなどあってはいけません。例えば、今のロシアもロシア側から言わせれば「大切なものを守るため」に侵略戦争という暴力行為を行っているのです。北朝鮮だって、中国だってそうです。「大切なものを守るため」なら、暴力ではなく別の手段を取るべきです。例えば、無言で退出すれば怒りの意思表明になるでしょうし、式典の後にマスコミを通してクリスを非難することもできました。その後スミスは主演男優賞を受賞しますが、そのスピーチで妻を庇い、ロックを非難することだってできました。

②ステレオタイプを補強してしまった
アメリカで今起きている人種差別に基づく、犯罪の数々は人種的偏見に基づいています。「黒人はキレると何するか分からない」という偏見や、「黒人は暴力的だ」というステレオタイプが原因の一つなのは明らかです。
スミスはまさに「キレて暴力を振るう黒人」という誤ったステレオタイプを演じてしまったのです。これは黒人の偏見をなくそうと活動してきた人たちの努力を無駄にするような行為です。もちろん、スミス個人の行動が黒人全体の行動にイコールにはなりません。しかし、偏見を持つ人たちはそう納得はしないでしょう。偏見とはもともとそういうものだからです。

③アカデミー賞全体を台無しにした。
今回作品賞を獲得したのは『コーダ あいのうた』です。アカデミー賞作品賞で配信サービスの作品が受賞したのは初めてでした。また同作で助演男優賞を受賞したトロイ・コッツァーは男性の聾者として初めてアカデミー賞を受賞しました。そんな歴史的な快挙があったにも関わらず、話題はビンタ事件に持って行かれてしまいました。アカデミー賞全体を台無しにしたのです。

④「らしさ」の助長
日本で多く見られる論調が、「愛する者を守るための行為だ!スミスは悪くない!」というものです。日本では男性にも女性にもこういう意見が多く見られます。しかし、こういう人ははっきり言って無意識の差別意識を持っていると断言します。この論調の根底には「女性は男性にとって守られるべき存在」だという意識があります。ジェイダ・ピンケット・スミスは一人の自立した人間です。彼女は自分一人で意見を表明する力があります。というより意見を表明する力があると見られるべきなのです。もちろん彼女が自分で意見を言わなければならない訳ではありません。彼女に強くあることを強制することは許されませんが、男性によって暴力で守られる存在でもないのです。
スミスは傷付けられた妻を慰め、支えるべきでした。
スミスの暴力行為は「女性は守られるべきである」という「女らしさ」を助長し、男性は「女性を力によって庇護するべきである」という家父長制的な「男らしさ」を象徴する行為となりました。
スミスは「あの行為は私がなりたいと思える人物像からかけ離れていた」と弁明していることから、この問題意識を持っていたとは思います。

今挙げた4つの理由からスミスの行為は絶対に許されないのですが、『最後の決闘裁判』(2021)という映画から日本でも根深い「男らしさ」の問題について考えたいと思います。

『最後の決闘裁判』守ったのは男の名誉


今回のビンタ騒動とその後の展開は、去年公開されたリドリー・スコット監督の『最後の決闘裁判』を思い起こさせました。

この映画は中世のフランスで、強姦されたという妻の名誉のために行われた決闘裁判についての映画です。
この映画では妻の人権や主張は蔑ろにされ、男たちはまるで自分の所有物が汚されたかのように争います。妻の名誉ではなく、結局は自分の名誉のためなのです。

この映画は妻を強姦された騎士の男、その親友で妻を強姦した男、強姦された妻の3人の視点から語られます。しかし妻の視点は中世の社会ではまともに取り合われません。あくまで女性に人権はないのです。

今回のビンタ騒動もクリス・ロックとウィル・スミスの声明はありましたが、ジェイダ・ピンケット・スミスの反応が見えてきません。侮辱されたのは彼女のはずなのに、ウィル・スミスとクリス・ロックの是非しか語られておらず、まさに彼女の個人性が蔑ろにされているように感じます。

繰り返しになりますが、侮辱されたことに対して何らかのリアクションをする権利があるのは第一にジェイダであって、ウィル・スミスではないです。少なくとも妻の代わりに暴力を振るう権利などありません。むしろ暴力によってジェイダの意見を覆い隠してしまいました。

妻の名誉ではなく、ウィル・スミスは自分の名誉を守ったにすぎません。

看過できない言葉の暴力

ウィル・スミスの暴力は許容できるものではありません。
それと同じくらい許容できないのは、クリス・ロックの暴言です。

笑いの文化を紐解くと、笑いは古代ギリシアから権力を風刺する手段として用いられてきました。弱者はジョークやお笑いという手段を用いて、権力を風刺し、抵抗してきました。

風刺的喜劇の傑作アリストパネス『女の平和』


ジョークは表現の自由を行使するうえでの重要な媒体の一つです。

しかし、それは弱者や少数者が権力者やマジョリティを風刺するうえでの話です。この関係性が逆になってしまえば、それはただのイジメであり、言葉の暴力です。看過できるものではありません。

では今回の場合は、どうだったでしょうか。
結論から言うと、僕は今回のクリス・ロックの発言は言葉の暴力だったと思います。

ジェイダは脱毛症という病気です。それを揶揄するジョークをするのは、この病気の人全てに対する侮辱であり、ルッキズム(容姿至上主義)に基づく差別発言です。
こういう差別に対して、アメリカ文化はポリティカルコレクトネスによって、反対してきたはずです。しかし、なぜか今回はクリス・ロックの発言の問題点は矮小化されているように感じます。それほど、ウィル・スミスの行為が愚かなものだったということでしょうが、クリス・ロックも同様に批判されるべきです。

クリス・ロックは2016年のアカデミー賞の授賞式でも、アジア人の差別発言をしており、再びプレゼンターに起用した映画芸術科学アカデミーにも疑問を感じます。

アメリカンコメディーはかなり差別的なジョークが多いので、そろそろ見直してほしいです。アメリカ芸術界が推し進めるポリティカルコレクトネスとのダブルスタンダートを指摘せざるを得ません。
日本のお笑い界の価値観の保守性はよく批判されています。日本のお笑いのルッキズムも本当に酷いですが、アメリカのお笑い界も正直言って“酷いもの”です。

たった一発のビンタが、日米のジェンダー的偏見やポリコレの矛盾を炙り出しました。


ちょっと話逸れますけど、ウィル・スミスのように「大切なもの」を守るためにカッとなって暴力を振るう男には気をつけてください。そいつはあなたにとって大切なものでも自分が大切じゃなかったら攻撃しますし、あんたのことが大切じゃなくなったら暴力を振るいます。男性も女性もそういう「男らしさ」を信奉するのはやめましょう。「男らしさ」とはそういうものです。

お読みいただきありがとうございました。
次回はちゃんと作品の話をしたいと思います笑


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