『スター・ウォーズep9』と『ローグワン』、『マンダロリアン』を物語消費論で読み解く

昨年末公開された『スター・ウォーズ スカイウォーカーの夜明け』をもって、スター・ウォーズにおけるスカイウォーカー家の物語は完結を迎えました。世界に衝撃を与えた『新たなる希望』から実に40年以上の長いサーガの完結です。ところが、その記念すべき最終作『スター・ウォーズ スカイウォーカーの夜明け』の評価は概ね酷評で、公開時の盛り上がりも前作『最後のジェダイ』や前々作『フォースの覚醒』に比べて下火になっていた印象は拭えません。

一方、ディズニーのオンデマンドで配信が開始されたスター・ウォーズのスピンオフドラマ『マンダロリアン』は素晴らしい作品で、ファンの間でも映画以上の盛り上がりを見せています。この差はどこから生まれたのでしょうか?その理由は、80年代末期に批評家の大塚英志が提唱した「物語消費」という概念から考えると読み解くことができると思います。

「物語消費」とは何か?

「物語消費」という概念は批評家の大塚英志が1989年に出版した著書『物語消費論』の中で提唱された概念です。物語消費とは物質や体験などを消費する従来の消費ではなく、背後に存在する「大きな物語」を消費する消費形態を指します。大塚はビックリマンチョコやシルヴァニアファミリーを例に挙げています。ビッグリマンチョコを消費する人たちはチョコやシールを消費しているのではなく、シールに描かれたキャラクターが背後に持つ神話的な世界観を消費しており、シルヴァニアファミリーも消費的な価値を持つのは人形自体ではなく、人形が背後に持つ設定や世界観です。この消費形態は80年代のポストモダンによる「大きな物語の終焉」の埋め合わせのような形で現れました。神話や国家、民族という物語が喪失した中で、人々(特にオタク文化界隈の人々)は「大きな物語」を希求し、80年代から物語消費が顕著になりました。

※以下、スターウォーズシリーズのネタバレがあります!未鑑賞でネタバレが嫌な人はご注意ください!

『スター・ウォーズ』が持つ「大きな物語」

話を『スター・ウォーズ』に戻しましょう。まず『スター・ウォーズ』という物語が背後にどんな物語を保持していたかということについては、多くの批評家が指摘しています。『スター・ウォーズ』が持つ物語とは神話です。監督ジョージ・ルーカスは神話論学者ジョーゼフ・キャンベルの『千の顔を持つ英雄』という著作を下敷きに『スター・ウォーズ』を作っています。

『千の顔を持つ英雄』は世界中の一見無関係な神話は、ほぼ全てにおいて共通する形態があるということを指摘した本です。神の息子が楽園を追放され、冒険や戦いを経て父親を駆逐し、母親と性的関係を結ぶというテンプレートは世界中の神話に見られるもので、ギリシア神話のヘラクレスやゼウス、日本神話のスサノオノミコトやヒルコ、旧約聖書のアダムとイブ、ソポクレスの悲劇『オイディプス』、果ては『竹取物語』や『桃太郎』に到るまで、細かな差異はあれど、神や人間ではないものが楽園を追放され帰還するという共通のスキーマ(構造)を持っています。民俗学者の折口信夫はこれを「貴種流離譚」と呼び、オーストリアの精神分析医のフロイトが「エディプスコンプレックス」と呼んだ概念とも共通する神話形態です。

ルーカスはキャンベルの神話論を基に『スター・ウォーズ』サーガを作りました。だからフォースの申し子ダース・ベイダーの息子のルークが自らの出自を知らぬまま辺境の星で暮らし、やがて旅に出て父親を倒し、(母の代わりに姉ですが)レイアと結ばれそうになるというプロットになっているのです。『スター・ウォーズ』はこのような神話的なスキーマを基にしているため、世界中に受け入れられる構造になっています。これがスター・ウォーズが持つ「大きな物語」です。70年代、多くの人がスター・ウォーズの世界観を物語消費し、熱狂したのです。


続三部作の失敗

SF作品の制作において定評のあるJ.J.エイブラムス監督が指揮を執る形で、2015年に『スター・ウォーズ フォースの覚醒』が公開されました。10年振りの新作だったこともあり、この作品は大きな盛り上がりを見せました。しかし、プロットは『新たなる希望』に酷似しており、昔からのファンの期待に沿った内容には目新しさが何もないと批判され、賛否両論の作品でした。2017年のライアン・ジョンソン監督『スター・ウォーズ 最後のジェダイ』は今までのスター・ウォーズが築き上げてきたものを良くも悪くも破壊した作品でした。脚本の粗さなどの問題もありましたが、スター・ウォーズに新たな風を吹かせた作品で、これからのスター・ウォーズへの期待を膨らませてくれる作品だったと思います。個人的には『最後のジェダイ』は好きな作品です。

スター・ウォーズシリーズはルーカス自身が創造した「大きな物語」を消費し、意図していたかは分かりませんが、ep1~ep3では時代に合わせてデータベース消費を助長する作品作りで支持されました(データベース消費については割愛します。東浩紀の著作を参照のこと)。しかし、スター・ウォーズには「遠い昔、遥か彼方の銀河系」という壮大な世界観があるにも関わらず、スカイウォーカー家の神話的な血統主義の物語に終始していました。クロノスの息子ゼウスが神としてのパワーを自覚し、成長して父を殺害するというような神話です。4~6、1~3で僕たちはずっとスカイウォーカー家の神話ばかりを見せつけられてきたわけです。

80年代以降、ポストモダンの時代となり「大きな物語」は終焉を迎えました。多くの人が神話や血統主義というものを信じない時代の到来です。ゼロ年代前半に公開された1~3の三部作ですら、人々は既に「神話」に飽き飽きしていたはずです。しかし2015年から始まった三部作はその「神話」をそっくり焼き回ししたような作品を作ってしまった。それがエイブラムスの失敗だと思います。『最後のジェダイ』でジョンソン監督はその神話を破壊しようとしました。レイにまつわる血統主義を否定し、ヨーダがジェダイの古い書物を焼いてしまうことからも明らかです。神話的な宿命論を放棄し、貴種流離譚ではなく「名もなき者」の物語としての「新しいスター・ウォーズ」は提案したと言えます。

しかし『スカイウォーカーの夜明け』で再び監督に就任したエイブラムスは、ジョンソンの「新しいスター・ウォーズ」というバトンを拒否し、血統主義に回帰してしまいました。保守的なエイブラムスと革新的なジョンソンの作品間の空隙は三部作の一貫性を毀損し、一体この三部作は何のために作ったのかというフラストレーションのみ残る形にしてしまったと思います。

実は2015年以降の三部作では、ジョージ・ルーカスの脚本やアイデアが、エイブラムスによって、ことごとく却下されたと言われています。推測になりますが、ルーカスはスター・ウォーズで「新しい神話」を作りたかったのかもしれません。21世紀の時代に合う「新しい神話」です。大塚は『物語消費論』の中で世界観全体の創造主として消費者に認知される人物を「ゲームマスター」と呼んでいますが、ルーカスはまさにスター・ウォーズ神話の「ゲームマスター」でした。ゲームマスター=神を排除(神殺し)し、オールドファンのウケ狙いと血統主義の神話という保守的な原点回帰に立ち返るエイブラムスは、右傾化やポピュリズムが進む時代において、ある意味現代的かもしれません。しかし、作られた作品に残ったのは時代に取り残された虚構の空虚さのみです。僕は『スカイウォーカーの夜明け』を観終わった後、偉人の死人を墓から掘り起こして見世物として利用されたような、苛立ちや悲しさを感じました。ディズニーは金が稼ぎたかっただけかと...


新たなスター・ウォーズの遺産

2015年以降のスター・ウォーズ・サーガには個人的に非常にがっかりしましたが、この新たなスター・ウォーズ・サーガは二つの素晴らしい作品を生み出したと僕は考えています。一つが2016年のギャレス・エドワーズ監督、トニー・ギルロイ脚本の『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』と2019年からオンデマンドで配信しているドラマシリーズ『マンダロリアン』です。

スター・ウォーズは壮大な世界観を持っているにも関わらず、スカイウォーカー家の物語に終始することで世界観の「物語消費」がうまく機能していませんでした。しかし実写スピンオフ作品『ローグ・ワン』は素晴らしい作品で、多くの人から支持された作品です。その理由は「名もなき者」たちの神話を創造したことだと思います。『ローグ・ワン』の主要な登場人物たちは全員「名もなき者」です。超能力のようなフォースもない、ライトセイバーもない、宿命的な大きな使命のない人たち、つまりルークやアナキン、レイと対極に位置する人たちと言えます。「大きな物語」が終焉し、自己が特別だという幻想が完全に崩壊した時代に生きる「名もなき者」である僕たちと同じです。そんな人たちが、仲間を信じることや仲間と共に勇気を振り絞ることで、宇宙の歴史を変え、誰かを救うことができる、そういう希望を与えてくれる作品でした。だから形而上的幻想が消え、希望なきリアリズムを生きる僕たちに深い感動を与えてくれたのだと思います。

そして『マンダロアリアン』も極めて現代的な作品だと感じます。主人公の賞金稼ぎマンドーはマンダロリアンという滅びかけの種族です。種族の掟や賞金稼ぎの掟に縛られていたマンドーは、ヨーダと同じ種族の赤ちゃんに出会うことで、自ら運命を切り開いていくことになります。境遇が似た赤ん坊を救うために、種族やギルドの古い掟を破り、放浪するのです。これは血統主義や慣習に縛られた組織に対する挑戦であるように思われます。あくまで血筋や与えられた運命に左右されてきたスカイウォーカー家の物語とは違うものです。脚本家がMCUに長く携わってきたジョン・ファブローが担当していることが理由の一つだと思います。MCUは既存のヒーロー像やヒーロー映画の方法論を捨て、現代的な物語として描いてきたからです。さらに『マンダロリアン』はジェダイやスカイウォーカー家に全く捉われない物語です。今までせっかくの大きな世界観を矮小化して描いてきたスター・ウォーズシリーズと比べて、その世界観の広さを存分に活かした作品になっています。明らかに『荒野の用心棒』などマカロニ・ウエスタンへのオマージュがあり、大人世代も若者も引き込む内容になっているのは面白いですね。宇宙の壮大さや多様性を描きながら、どこか郷愁を感じる世界観だと思います。物語消費論、データベース消費の観点から見て、多くの現代人がワクワクする作品になっているように感じ、ようやく、スター・ウォーズが呪縛から解放されて大きな宇宙に旅立った気がします。『マンダロリアン』これからも楽しみにしたいと思います。


今回も超長文になってしまい大変恐縮です... 分かりづらい点やこれは違うということなどがありましたら、教えていただけると助かります!ではまた

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?