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月末映画紹介『ノマドランド』『あのこは貴族』批評

ここのところ忙しくて映画を全然見に行けてないし、noteも書けなかったのですが、とても素晴らしい映画を2本見たので、時間を削って書いてみることにします。

アメリカの原点に立ち返る『ノマドランド』

『ノマドランド』は中国出身のクロエ・ジャオ監督が2017年に出版されたノンフィクション小説『ノマド: 漂流する高齢労働者たち』を基に製作した映画であり、批評家から高い評価を得ている作品です。主演のフランシス・マクドーマンドの演技は絶賛されており3度目のアカデミー賞主演女優賞を受賞しました。

本作は現代のアメリカ社会で起きている社会問題を描いたものであると同時に「アメリカ人」の源流に立ち返る作品です。そのあたりが本作の根幹であると同時にアメリカ社会に興味がない人には分かりにくい部分でもあるので、解説したいと思います。


住む場所を失うアメリカの老人たち

僕のnoteではいつもあらすじを載せているのですが、今作に関しては割愛させていただきます。なぜならこの映画にストーリーはほとんどありません。いわば一人の人物に密着したドキュメンタリーに近い作品です。軸となる人物はフランシス・マクドーマンド演じる「ノマド」の女性、ファーン。「ノマド」とは流浪の民を意味する言葉です。今作の出演者の多くは実際の「ノマド」の人たちであり、本作のリアリティを大きくしています。

アメリカには大企業の工場で成り立っている街がたくさんあります。住民のほとんどはその工場で働き、その工場の「城下町」に住むわけです。しかし、中国の経済成長などでアメリカの製造業は大きな打撃を受けます。そして止めを刺したのは2008年に起こったリーマンショックです。

リーマンショックとはリーマンブラザーズ社が展開していた低所得者向けの住宅ローンであるサブプライムローンがうまくいかずに、リーマン社が倒産、さらにリーマン社と取引のあったメガバンクも煽りを受けてアメリカ経済、強いては世界経済全体が大不況に追い込まれた経済危機のことです。

サブプライムローンは簡単に説明すると、所得が少なかったり借金のある信用力が低い人にもバンバン住宅ローン組ませちゃうよ〜という仕組みのことです。住宅ローンの証券化と言えます。誰にでもバンバン家や土地を売っていたら最初のうちはそれはいいでしょう。しかし、信用力のない人にずさんにローンを組ませていたら、当然のように払えなくなる人が多くなりますよね。そうしてサブプライムローンを発行していた金融機関は資金を回収できなくなり、倒産していきます。ウォール街のメガバンクが倒産すれば、経済全体に大打撃であり、全米各地の工場は閉鎖、工場がなくなれば「城下町」の人たちも仕事がなくなるので引っ越します。こうして全米にゴーストタウンが生まれます。

若い人であれば別の街で何らかの仕事に就くこともできるかもしれません。しかし、定年を迎えた老人たちは仕事を再開することは難しいでしょう。特に女性たちは結婚して仕事を辞めた人が多いので、仕事のキャリアがなく、なおさら再就職は難しいのです。住んでいた街がゴーストタウンになったり、ローンが払えず家を失った老人たちはキャンピングカーで全米各地を放浪します。こういう人たちをワーキャンパーと呼ばれます。

仕事もなく放浪生活を送るワーキャンパーたちに目をつけたの企業があります。日本でもお馴染みのAmazonです。アメリカには11月の第4金曜日に大量の買い物をするブラックフライデーと呼ばれる文化があり、Amazonもその時期に合わせてワーキャンパーたちを雇用するのです。Amazonの工場は土地代の安い荒野などにポツンと建てられていることが多いです。そこに従業員を呼び寄せせていたら交通費や宿泊費は莫大です。しかし、ワーキャンパーの老人たちは家であるキャンピングカーで移動してくるので、交通費や宿泊費はかかりません。せいぜい駐車場代くらいでしょう。ワーキャンパーの雇用はAmazonにとってもワーキャンパーにとっても都合のいいものなのです。(Amazonの工場での勤務は長時間の肉体労働であり老人には厳しい仕事。工場での労働環境は劣悪とされ、問題になっている)


ワーキャンパーが見出した「ノマド」という価値観

本作にも本人役で出演しているワーキャンパーの先駆的な人物であるボブ・ウェルズは自ら立ち上げたサイトで車上生活のノウハウを教えていました。リーマンショック以降、多くの人がウェルズのもとに集まるようになり、徐々に新たな価値観が生まれるようになりました。それが「ノマド」です。

かつてアメリカ大陸に住んでいたのはネイティブアメリカンという人たちでした。現在のアメリカのマジョリティの白人は後からアメリカに入植してきた人たちです。夢を追い求めて新大陸にやってきたり、祖国で迫害されて逃げてきたり。そして東海岸の13州しかなかったアメリカを「放浪」して西海岸まで一つのアメリカにしたのです。老人たちはそのような「放浪」に「アメリカ人」としてのアイデンティティや遺伝子的な郷愁を見出して、誇りを持って「ノマド」と名乗るようになりました。

もちろん、家を失い放浪し、死ぬまで過酷な労働をさせられる高齢者というのは改善すべき社会問題です。しかしワーキャンパーたちにとっては過酷さの反面、新たな出会いや夢があるということも『ノマドランド』は描いています。

素晴らしい撮影、演出、音楽、演技、全てが合わさって文句のつけようがない大傑作になったと思います。


貴族から見た東京 平民から見た東京 『あのこは貴族』

『あのこは貴族』は山内マリコ原作の小説を門脇麦、水原希子主演で映画化した作品です。監督は岨手由貴子監督。過去の監督作品でも高い評価を得てきましたが、大規模な作品は今作が初めてです。

あらすじ
物語は2人の女性、華子と美紀が主人公。20代後半の華子(門脇麦)は、東京の上流家庭に生まれ、何不自由なく育てられたが、結婚を考えていた恋人に振られ、人生初の挫折を味わう。必死で婚活に励み、家柄も良くハンサムな弁護士・幸一郎(高良健吾)との結婚が決まるが、思い描いた幸せとの違いに悩む。一方の美紀(水原希子)は、富山の一般家庭に生まれ、猛勉強の末に一流大学に入学するも、親の失業で学費が払えず中退。水商売を続けながら何とか東京の生活にしがみつく。そんな別々の世界で生きてきた2人の人生が、ある時ひょんなことから交わり、それぞれを思いもよらぬ方向へと導いていく。

それぞれが抱える孤独

山内マリコの小説には「都市と地方と女性」という通底するテーマがありました。今作では「階層」という新しい視点を取り入れることでより深みに達した印象です。
一億総中流という幻想の裏に、見えないけれど確かに存在している上流階級と、上流階級への階層移動への夢を上京することで達成しようとし、挫折する女性。地方からの上京と挫折というモチーフは山内マリコの小説では一貫して一億総中流の虚構、東京を中心とした中央集権、階層移動を許さない日本の社会構造のメタファーとして描かれてきました。

映画化された山内マリコ作品である『アズミ・ハルコは行方不明』や『ここは退屈迎えに来て』では舞台が地方都市(富山県)でしたが、今作は東京に上京した人と、東京の中心に生まれ育った人の視点から描かれています。つまり、「地方から東京=下から上」の視点を「上からの視点」に転換している点も新しいです。地方から断絶された聖域として今まで描かれていた(描かれていなかった)東京にようやく踏み込んだ作品だともいえるでしょう。

この作品は渋谷区・松濤の開業医の家に生まれた所謂「貴族」の女性、華⼦が家族と食事をするシーンから始まります。高級ホテルのようなところで、フォーマルな装いをビシッと決めた厳かな会食。僕のような貧乏な田舎者はこの一連のシーンがかなり息苦しく、閉塞感を感じるのですが、華⼦もどこか馴染めないような、居心地の悪そうな様子をしています。華子の息苦しさと観客の息苦しさが見事にリンクしています。この息苦しさは華子が将来の夫・幸一郎と出会うまで続きます。

一方、富山から東京の大学に進学し、学費が払えず中退しながらも東京にしがみつくように働いている美紀も、東京で働いている意味が見出せずにいました。憧れていた東京に来てみても、そこには絶対に越えられない壁が存在していました。猛勉強の末に入った大学では、一貫校の高校から上がってきた内部生と受験して外から入ってきた外部生では住む世界が全く異なりました。カフェで5000円のアフタヌーンティーを気軽に注文する内部生に唖然とする美紀。この国には生まれながら階層が決められており、努力しても階層を移動することはままなりません。

ちなみに、アフタヌーンティーとは内容とコストパフォーマンスを考えると貧乏人は決して頼めないし、努力してアフタヌーンティーを注文できる所得を手に入れた頃にはアフタヌーンティーを気軽に食べられるほど体ではないという点で「貴族」しか食べられないものだと思います。

美紀が地方で感じていた閉塞感は東京に移っても晴れることはありませんでした。むしろ形を変えた閉塞感を味わうことになりました。

渋谷生まれの華子と地方出身の美紀、二人とも階層に縛られた閉塞感を感じています。

さらに華子の夫になる幸一郎も、階層に縛られていました。生き方の全てが生まれながらに決められている閉塞感。美紀と華子は邂逅によってある「目覚め」を果たしますが、幸一郎は囚われ続けることになります。地方で生まれてしまったが故の閉塞感や決められた人生を歩まされる息苦しさを、形は違えど実は「貴族」も同様に感じていたという山内マリコ作品の新たなステージと言えるでしょう。


華子の乗るタクシーと美紀と美紀の友人が二人乗りしている自転車が対比として描かれています。移動手段としてはもちろんタクシーの方が快適だし、自転車の二人乗りは疲れるうえに法的にも違法行為です。しかし、タクシーに乗る華子の表情は多くのシーンで暗く、二人乗りをする美紀ははじけるような笑顔です。それは人の幸福は階層や地位や所得で決まるものではないというメッセージでしょう。

また幸一郎が登場するシーンで繰り返される雨の情景描写も象徴的です。確かな未来を約束されながらも、自分の将来に関する自由意思の一切を剥ぎ取られた幸一郎の心情を雨に象徴させているのだと思います。幸一郎が美紀と庶民的な中華料理屋で語り合うシーンで、閉じた傘から雨が滴っているのも幸一郎の心の安らぎを象徴する演出だといえます。

カラコレ(画面の色調を調整して赤みや青みのバランスを整える作業)によって、心情をうまく演出し、撮影や演技に関しても素晴らしい傑作です。

階層が違ってもこの国の人たちは同じような孤独や悩みを抱えていると気づかせてくれる作品でした。


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