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見して、見して。 〜解釈違いをしたくない私たちへ〜

 これまでの写真とドールに関する3つにも渡る考察は、あれだけの文字数を使って同じ事を言っているに過ぎない。

機材うんぬんより『見る』そして『ひたすら丁寧に直す』ことが大事なんじゃないかと。他人の作品や写真になら良くない部分をいくらでも見つけて批判を出来ても、自分の写真にそれ以上に厳しく居られるのか。自分の作品にだけ評価や判断を甘くしてはいないか?正直なところ、人の写真をあーだこーだ言うのに自分の写真には甘くお粗末で見る目が無い・認知が歪んでいる状態が一番格好悪い。準備する段階、撮影する段階から自分に厳しくしよう。そして見る目とクオリティを上げようってな事である。

 『中華一番』と言う漫画に鳳凰水晶という料理が出てくるエピソードがある。

その実態はずばり、大量のもやし炒めだ。

ただし、長い時間をかけて手作業でもやしのヒゲと大豆を全て取り除いて炒め、鳳凰という中国の神話に由来する伝説の鳥を象るように盛り付ける。そんな手間暇をかけ贅を尽くした逸品なのである。ヒゲと大豆を取り除くのは口当たりを良くするためと、透明感溢れる宝石の様な美しい見た目にする為だ。

食べる人の事を真に考え手間暇をかけたものは、例え安価な食材であっても見た目・味ともに贅沢で至高の一皿になり得るんじゃないだろうか。私はいつもこの料理を思い出しながら作品を作っている。自分の作品に対してドSで接するドMで居たい。

人に出す料理は誰かに食べて貰う前提があり、公開する写真は誰かが見るかもしれないという前提がある。自分が食べるんなら、ヒゲのついたもやし炒めを丼に適当に盛って食べるわいな。

ぶっちゃけ、狂気の如き丁寧さをもった作品で殴ればそれを見た人は『理由がある偏執的なこだわり』を『愛』だと勘違いしてくれる。

お金を使うことは愛かもしれない。手間暇をかけることも愛かもしれない。お金を稼ぐのには自分の時間を使っているし、手間暇をかけるのも自分の時間を使う。つまり愛=時間、つまりどちらも自分の人生をつぎ込んでるとも言える。そこに人はグッと来るんじゃないか。

人生を注ぎ込むには理由がある。その理由を一枚で語れるのが『写真』や『絵』だ。

 

『写真を見る』ってそもそも何か?


 写真は『人の性癖博覧会』である。

さらに主語をデカくすると『全ての作品はその人の性癖丸出し大会』である。

性癖を食べやすくいい感じに出したヤツが勝つ。お尻を出した子一等賞だ。

写真を『好き・嫌い』『上手い・下手』以外でどう見たら良いのかわからない、って人もいるけれど私がやっている見方を晒すので何かの参考になればと思う。

カメラを向ける理由、すなわち性癖を探せ!

写真を撮る、と言う行動には必ず『カメラを向けた理由』公開された写真には『その写真を選定した理由』が存在し、その理由を見つけて味わうアトラクションだと考えている。これは絵画や小説や映画や音楽にも応用出来るし本質は同じである。その絵を描いた理由、その小説が伝えたかったこと、映画で一番描きたかったシーン。それらを自分なりに見つけることもエンタメのひとつの楽しみ方だ。(考察厨とも言う)

作品の核である部分を見つけることは、作品の本質に触れ作者に寄り添う行為だ。作者が美しいと思ったもの、伝えたいこと、良いと思ったものそれを私は『性癖』と呼ぶ。

性癖とは『理解』が無いと見つけられない。人間は知らないものを認知出来ないからだ。知り、許し、認め、理解する。そしてそれを興味と敬意を持って面白がる。例え技術が稚拙だったとしても、性癖であるモチーフを表現するには最適でありその分野では最強かつ素晴らしい!という作品もゴロゴロ存在する。もしかしたら、今まで知らなかった性癖を知るキッカケになるかもしれない。


 これは私が数年前に経験した話なんだけれど。

八木香保里さんと言う、フィルム写真を撮っている女性カメラマンさんと多摩川沿いの堤防を散歩していた時のこと。彼女はふいに立ち止まって楽しげにカメラを足下に向けた。

私には何も気になるものはないけどな〜と思い何を撮っているのか見てみると、それは作りかけなのか千切れた白詰草の花冠だった。私にはその時ごみにしか見えなかったそれを、彼女のみずみずしい感性は『価値のある可愛らしいもの』として映ったのだ。これに私はかなりの衝撃を受けた。

作りかけで飽きてしまったとか、頭に着けて遊んでいたら千切れてしまったとか、この花冠にはきっと小さく可愛い何かしらのドラマがあり誰かの存在がある。物語やロマンを繊細にキャッチ出来るって素敵だな・羨ましいなと思い、私は彼女に大層感謝したものだ。

不思議な事に、そんな出来事があってからと言うもの頻繁に道端の花冠を見つける様になった。人は認知すると、途端に今まで気付かなかったものも『見る』ようになる。写真や作品からその人の視点を見せて貰うことで、自分の中に『知らなかったけれど美しいもの』を教えて貰えるのだ。これを繰り返すと多面的にものを見る癖がついて、世界は美しいもので溢れていくだろう。

この人はこれが良くて撮ったんだ、を理解する速度や感度を上げるには『見る』そして『知る・調べる』『考える』という繰り返しである。さらに私はその人の伝えたかった性癖を見つけ、それが上手く表現されていたら絶賛し技法を考察するし、もし表現が足りない・解釈が違う・嫌いだなぁと感じたら何が嫌なのか・何が足りないのか・その上で自分だったらどう表現するか』を考えることに時間を費やする。これは後々自分の作品を作る時にめちゃくちゃに役立つ。何が嫌なのかを言語化して自分ではやらない、別の方法にするという選択肢が増えるからだ。

こうした見方で作品を見ていると『この世に見ることが無駄な作品なんて無い』と常々思う。安易に誰かの作品を批判する人も居るが、それは浅い楽しみ方だなぁとちょっと感じている。作品に対して合う合わない・好き嫌いはあるだろうが何が好きで何が嫌いか、もし嫌いならばどうしたら好きになるのかを深掘りして、今後の自分の作品に活かす方が誰も傷付けない上にクールであり面白いんじゃないかなと思う。

『見る』力を伸ばすと色々なものが楽しめるし、良いところに気がつける。自分には無い他人の発想に素直に凄い!と思える方が人生は楽しい。

映画や小説を他人の人生の擬似体験とするならば写真を見る、とは人の視点を疑似体験しながらする『いいとこ探し』なのだ。



せっかく人生使ってるんだから、その時丁寧に作った方が結果的にお得じゃね?


 後世の自分と解釈を合わせろ。

 以前の記事で

妥協するな。『ちょっと写りが悪いけどまあいいか』『よく撮れてないけどあげておこう』のような自分でも良くないかもしれないと判断した写真はSNSにあげてもいい事ない。

と書いたのだが、自分の作品をちゃんと『見る』事が出来たら未来の自分は許さないであろう雑な仕事や甘えを回避する事が出来る。ここで言う未来、とは『撮った写真を見返した数十分後の自分』かもしれないし『帰宅してパソコンの画面で撮影データを確認した数時間後の自分』かもしれないし『過去の写真を見返した数年後の自分』かもしれない。

人の作品をたくさん『見て』考察できた自分なら、撮ろうとした性癖がいい感じに出せてるのか?本当にこれがMAXなのか?性癖の素晴らしさを妨げる余計なものは写っていないか?撮影時にも己に問いかける事が出来る。ここでなあなあにした場合、未来の自分が後悔するかもしれない。

それをリベンジという形で撮り直してもいいが、出来る事ならその時々で自分の最高の性癖丸出し作品を作り出した方が、未来の自分も『この時は技術はまだまだ稚拙だったけど解釈が死ぬ程合う!!!!ありがとう自分!!!!!😭😭😭』といういつまでも愛せる作品になる。それで私はいくども救われた事がある。お勧め。


『見て』『丁寧に作る』とは写真を見る人への誠意であったり、未来の自分に残せる愛であったりすると私は思っている。

そして人の作品も『愛が込められたものである』『その先には人間がいる』という前提を忘れずに敬意を持って見る事で、人の視点を楽しみ自分の人生や作品に活かしていけるのではないだろうか。

そして自分の作品と性癖で殴られた誰かを理解(わか)らせるのもまた最高に楽しいのだ。

 

ちなみに私の性癖は『黒髪ぱっつん姫カット』『異種族バディ』『大きいものと小さいもの』『日常の何でもない普通の景色をめっちゃドラマティックにする』『ノームコア』『リズムがあって季節や空気を感じる』『光が綺麗』あたりです。


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