バードウォッチングで「知らないこと」を知れた話
昨年の秋ごろ、前職場の先輩に連れられて都内の公園でバードウォッチングをしました。
もともとバードウォッチングや野鳥撮影にも興味がありました。双眼鏡や野鳥図鑑を買って準備したものの、思い切りがつかずにフィールドには繰り出さず、行きたいという思いだけをくすぶらせていたのです。
そんなところに声がかかって、ついにバードウォッチングの世界に足を踏み入れることになりました。
その日は午後から公園に繰り出して、ふらふらと歩き回りながら鳥を探しました。この日見ることができたのはシジュウカラやヒヨドリ、コゲラやコガモ、ガビチョウなど、その公園では特に珍しくもないありふれた鳥たちでしたが、初めて「鳥を見る」という意識のもとでまじまじと双眼鏡を覗いた私の目には、どの鳥も新鮮で美しく映ったのでした。
さて、この日私が持ち帰ったのは、バードウォッチングに対する好意的な印象や野鳥への興味だけではありません。冒頭にも書いたように、それらはもともと私が抱えていて、ただ具体的な行動に移せていなかっただけのものです。
連れ出してくれた先輩は鳥の声を聞くなり、「これはヒヨドリ」「あっちでコゲラが鳴いてる」など、声と野鳥を結び付けてくれました。
YouTubeにも地鳴き・さえずりを紹介する動画は山ほどありますが、人の喧騒や他の鳥の鳴き声の中で聞こえてくる鳥の声は、YouTubeで聴くことのできるクリアな音源とは違って聞こえます。
それに、実際のバードウォッチングでは「聞こえてきた声がどの鳥か」を判断する場面が多いので、「ある鳥がどんな鳴き声をするのか」を知る図鑑や動画では、初心者には相性が悪いなあと思ってしまいます。
現場で聞こえてきた声を「あれはこの鳥」と教えてくれる識者がいることのありがたみを噛みしめました。
話を戻すと、具体的にはこの日、ヒヨドリの鳴き声を覚えて帰りました。
すると翌日、会社への道すがら、街中でもヒヨドリの鳴き声が聞こえてきて、すぐにそれと識別することができるようになりました。
「ははあ、探鳥っていうのは姿が見えなくても、鳴き声だけで楽しめるものなんだな」と一人で納得しながら歩いていると、今度は別の鳥の声が聞こえてきます。
「知らない鳥の声だ」
と思ってハッとしました。
私はそれまで、街中で聞こえる鳥の声に対して、あまりに無意識に過ごしていたことに気が付きました。
聞こえたところで何の鳥かもわからない、そもそも昨日聞こえた声と今聞いた声が違うのか、その区別もつかない。
そんな曖昧模糊とした「鳥の鳴き声」という領域の中に、ヒヨドリの鳴き声という明確なくさびが打ち込まれて、「知っている」「知らない」の境界線が引かれたのです。
「知らない鳥の声」は、たしかに私の知らない鳴き方をしているけれど、それがヒヨドリではないことはわかるし、明日の私が聞いても同じ鳴き声だとわかるでしょう。
「ヒヨドリではない」という特徴を聞き分けた私の耳には、それは「知らない鳥の声A」という明確な色を持って、これから聞くであろう「知らない鳥の声B」とはっきりと弁別されるでしょう。
私はヒヨドリの鳴き声を以て、それまで気に留めずまったくの無知だった鳥の鳴き声という領域に意識的になり、日常の中で認知する世界がひとつ広がりました。ヒヨドリの声が、私の狭い視野を押し広げて日常を豊かにしてくれたのです。
世の中にはこのような「知らないことも知ることができない」領域が無数に広がっているのでしょう。私が生活の中で意識し、触れているのはその何百万分の一かというごく限られた世界なのでしょう。これはとても寂しい話です。
それでも、「鳥の鳴き声」という領域の中のヒヨドリの声のように、何らかの知識をくさびとして打ち込んで、そこを足掛かりに既知と未知の色を塗り分けていくことができる。これはとても楽しい話です。
今まで何の気なしに見過ごしていた無知ですらない領域に、これからも節操なく足を踏み入れていけたらいいなあ、と思った話でした。
ちょっとだけ本の話
なんていうことを考えていたら、こんな本に出会いました。
「知っていること」と「知らないこと」は隣接していて、「知らないこと」を見つけるには体系だった知識、つまり正しく「知っていること」が必要、という話です。
著者自身が調べた具体例(海岸の種類や特徴、草と海藻の違い、日食・月食のメカニズムなど)が多く出されていて分かりやすく、いわゆる教養本としても面白かったです。
ちょっと引用して、記事の締めくくりとします。
あとがき
こういう話はソクラテスとかいうおじさんあたりが難しそうなことを喋っていそうな気がします。ちなみに私は「無知の知」について何も知らないことを知っていますので深くは立ち入りません。
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