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 世の中には様々な「すごい」があります。

 しかし多くの場合、その「凄いという言葉」には実態は伴わないと感じている自分もいます。

 オリンピックに出場することはすごいことです。ですが、それがどのくらいすごいのかは、自分でその競技に向き合ってみなければわかりません。

 英語教員としての道を選んだ私ですが、恥ずかしながら当時はまだまだ力不足でした。就職先は東京大学や京都大学など日本の最難関の学力レベルを目指す学校でしたので、おのずと自分もそれらの問題に対応できる英語力が必要になる。

 東大や京大レベルの問題と真剣に向き合ったのは、就職した時が初めてで、そのレベルに驚愕する。しかし、その「凄さ」には実態はまだない。

 自分の英語力が上がれば上がるほど、できることが増えれば増えるほど、それらのレベルの問題を解くことの難しさが実態となって現れてくる。

 それは、単語力や文法力などの「純粋英語力」だけの難易度だけではなく、処理スピード、正確性、再現性など様々な要素の複合体であることがわかる。

 そして世の中の「当たり前」と思われていることでも、そこには必ず「凄さ」があり、その凄さを、本当の意味で「すごい」と思うのは、知識・技能・思考の学びが必要であることを実感します。

 自分にとって実態のない「凄さ」は、 何かこう「空洞感」があり、その結果、その「本質的な凄さ」を軽視することに繋がりかねないな。

 そんなことを思います。

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