メモ:ラズ『自由と権利』, III義務を解放する

今回は内容のメモの中に、感想のメモも入り込んでいます。

権利を中心化し、義務をその反射として捉える見方に対して批判を加える。ラズは、権利をより基本的は福利の教説のもとに置き、その派生物として捉えるという必要と、我々の道徳ー政治生活の理解において、義務(の概念)に権利の保護や促進とは独立した中心的な役割を与えることを提案する。

1、正統理論
権利が究極的で根底的な価値であるという理論が人口に膾炙した正統理論として紹介される。ここでは、義務のその必然性は他者の権利、利益に奉仕することによって正当化される。

2、最初の疑義
1のような権利中心主義的な見方を検討し、棄却する。
第一に、自分自身に対する義務はないのかという疑義が生じる。
個人の福利を、個人の欲求や選好あるいはそれらの下位集合、例えば合理的なものとか自己志向的なものないしは個人が十分な情報を与えられたとしてもなお推奨しようとするものなどに存すると捉えると、自己自身への義務は存在し得ない。自己自身に関しては、人は合理的であったり意志が強固であったりあるいは十分な情報が与えられたりしていさえすればとにかく欲することをなしうるのみであり、そうする義務はないことになる。しかし、実際のところ、賢慮の義務であるとか、自分自身に対する義務という観念は全く不合理ではない。これは個人の福利の捉え方に起因している。これは後述される。また、後に関わることとして、権利は何かに対立的だが、義務はその必要はないことも指摘される。

3、権利と義務が埋め込まれてあること
本節では以下の3点が示される
①権利も義務も共に個人の福利に関わるより広範な理論の内で結合されていると理解されるべきであるという見方の例
②そのような広範な理論が義務の概念に対して権利の支持とは独立した役割をいかにして与えるか
③権利の対立的な概念解釈がいかに義務の地位を減退させているか

①共通財に対しての権利から例示される。
ラズの共通財の用法がちょっと特殊という話は既にメモを作った。
https://note.com/irak/n/n6f61dc68631b
ラズによると、典型的には個人は共通財に対する権利を持たない。一人一人にとって共通財の価値がいかに大きくとも、そのことが多数の人々に義務を課すことを正当化するわけではない(85)。この辺りは、構造的不正義の問題と合わせると興味深いなと思う。ラズは公共財で集合行為による正の外部経済を問題にしているが、逆に集合行為の負の外部経済を問題にしているのが構造的不正義と言えるだろう。
しかし(こういうところ、ラズが一段ずつを分けて議論をすすめているところであるが)、共通財に対する個人の権利が存在しないことは、共通財を供給し維持する義務の存在と両立しうる。典型的には政府などに存する。その義務はやはり、一般に共通財の存続に関わるコミュニティの構成員の利益に基づいている。
②について。いかなる権利も利益享受に向けられているとはいえ、そのことから権利をもつことは常に利益享受になるとはいえない。公共的な権利関係の中でよりも、私的な好意からの方が利益提供が容易なことがある。権利の対立的性質が避けられるべき関係があるとされる
③について。権利の間個人的性質は、権利を基礎的なものと考える試みの障害となる。権利は保持者の利益になるが、利益は必ずしも権利とならない。利益を権利に高めるためには、他人が権利保持者の利益に奉仕する義務の存在を正当化する十分な理由が必要である。この義務の正当化は、権利保持者の利益だけではなく、義務付けられる他人の利益にも依存する。ラズはこの比較衡量的な考え方を不十分だと考えているが、この点は後述される。
以上より、権利は基底的なものというよりは、規則や原理、制度のレベルにあることが示される。

4 福利と意志
権利と義務は個人の福利に埋め込まれている。
個人の福利は当人にとって良い事柄すべてから成立するが、二つの相補的な局面に分けられる
①個人をより良き人間にすること
②個人の生活がより良くするあるいはより成功させること
(生活の主体である個人自身によって良い生き方であることを意味する。例えば母としてなどの次元は区別して考えられ得るし、それは大切だが、問題となる音は当人自身にとってどうかである。)
この考え方は、人格であるということの基本的な性質である自分自身の福利へのないてきな関心から導かれる。
これによって、外的な欲求などの充足のみを考える福利観が否定される。
第一に、人は欲求をより大きな生活パターンの一部としての評価に服するものとみなしている。それゆえに、ある欲求を持ちたくないとか、自分のものではないとか思う。また、目標に照らして、欲求を評価したり、変化させたりする。
第二に、より中心的な点として、我々の欲求は何もないところから、あるいは我々の人間性の非合理な側面から生ずるのではない。そうであるからこそ、我々は欲するものに理由を求め、それを理解し、制御する。欲求は信念と同様に合理的なものの領域に属している(91)。我々は単に欲求が満足させられることについて配慮するのではなく、理由ある欲求をもつことについて配慮するのである。

この欲求と信念は共に合理的なものの領域に属するという主張は、いわゆるヒューム主義とは相対する主張であるように思われるが、私よりもうちょっとわかる人に意見を聞きたい。というのも、私は適応的選好形成の問題において、欲求の適応と信念の適応を分けることの効用がいまいち分からずにいるので。

5 自尊と自己自身に対する義務
ここまでで、人々が自分自身に対する義務を有するという見方に対する障害が取り除かれてきた。では、自分自身への義務の例として自尊を考えてみよう。以下は引用そのままではなく、若干はまとめているのだが、ほとんど縮小されていなくて読みにくいのでノートの引用機能に入れている。

自尊の観念の核心部にあるのは、人にはすべきこととすべきではないこととがあり、そして人の生活に含まれる価値は自己自身が適切に行動することに依存しているという信念であり、このように信ずることが、自尊を有するということなのである。自尊をもつ人はさらに、自分が自己自身によっても他人によっても一定の仕方で取り扱われるべきであるという信念をももつことになる。特に、自尊をもつということは、人は自己の責任を全うすべきであり、他人に常に責任を取ってもらうことを期待すべきではないと信ずることである。このことに則して、自尊を有する人は、他人は自分を合理的な責任ある主体として取り扱うべきだと考える。かくして、自尊[の観念]は、合理的な行為を行う能力と、そしてその能力の責任ある行使によって生活を行うこととが人の生活に価値を与えるという信念を含むのである。
この価値は、既に見たように、他人に対する単なる指針、つまり自己に対する他人の行動への制約などではない。その価値は、何よりもまず、当の主体自身の努力、すなわちその主体自身の生活をいかに導くかという観念の指針となるものである。自尊が正当化されるのは、これらの信念が適切な基礎づけを有するからである。すなわち、人々が自己を尊重するのは、彼らが合理的な主体であるからであり、そしてそのような主体として責任をもって行動するよう努める程度において、換言すれば彼らが責任ある主体である程度においてである。
[このことから、]自己に関わる二種類の理由が現れる。第一に、能力あるすべての人は自尊の資格を与える諸条件を充たすべきである。それらの人々は、合理的主体たる自己の能力を尊重すべきであるし、またその能力を責任をもって行使すべきである。すなわち、人々は責任ある行為主体たるべきである。第二に、責任ある行為主体であって自己を尊重する資格をもつ人々は、そう行為すべきである。これらの補完的な理由はすべての人が資格を有しかつ享受すべきである条件としての自尊の価値から生じ、またそれを反映している。

この自律の概念はMackenzie(2014)による関係的自律の概念整理のうちの、self-authorizationを構成しそうだなと思う。さて、ここまでは自尊の概念を論じているのだが、以下がラズが卓越主義的リベラリズムと言われる所以のところであろう。すなわち、自尊の理由は我々の意志とは独立である。

我々は自尊をもつことを願わざるを得ないし、その自尊を妥協させたと感じたときには価値が減じられたり剥奪されたりしたと感ぜざるを得ない。この点には選択の余地はない。我々にはそれ以外の生き方はないのであり、すべての人が自尊に値するしまたそれをもつべきであるというこの主張は直観的に極めて心に訴えるものであると私は思う。

この全ての人が自尊を獲得し所有しなければならないということの理由は、人々は責任ある主体にふさわしい仕方で自分自身を取り扱う義務があることを示す。

6 善を構成するものとしての義務
義務はそれを正当化する前との外的な関係によって正当化されるという想定への反論を行う。義務はそれを正当化する善と内的な関係に立ちうる。例えば友情の責務はその一例であろう。そして、友情は、人々の間の相互作用のパターンを確立し確定する社会実践によって予め規定されている。このように価値ある活動や関係の様式が社会的実践に依存していることは次の3つの要因から起こる。
第一に、本有的な善は規範的な側面を持っている。目指すことができる対象として良く知られていなければならない。第二に、関係や活動は、それを構成する行動様式が社会化によって内的に習得させなければ、それに関わることができないような知識によって満たされている。第三に、多くの価値ある活動や関係においては、それに参加したいる人の状況についての認識がその一部に含まれている。

第2点目は適応的選好形成の問題とも関わると思った。要は社会化の問題なので。内在化することによって、その存在を受け入れてもらえる関係に入っていける面があるというのは確か。しかし、第3点目では関係への自覚を求めているので、この辺りでバランスを取れるのかも。

また、正当化の方法としても内的正当化というものを用いていることは面白く感じる。「友情の義務の正当化は、その義務が本有的に価値ある関係を形作るか、またはその関係の一部であるということによる。これはそれ自体の一部分が友情の義務によって形づくられているところの善に言及することによって当の義務を正当化するものであるから内的な正当化である。

7 義務を解放する
まとめにつき割愛



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