感想:森「ポリティカル・コレクトネスの意義と限界」『法学セミナー2023年3月号 差別問題のいま』

ポリティカル・コレクトネスの意義と限界――差別との闘いが孕む差別…………森 悠一郎 

 提起している問題はとてもよくわかるものだ。ポリティカル・コレクトネスの追求が特定のすでに可視化された差別を恣意的に選り出していること、それに対して別な差別を不可視化する作用を持ち得ることの指摘は重要である。
 また、ある差別的な言説や実践の中で恣意的に批判されているものの取り出し方にも、複数あることが森論考では、実は示されている。一つは、差別の対象とされている個人ないしは集団の取り出し方が恣意的である事例である。例えば、女性や子ども、有色人種や障害者への差別は問題にされるが、「オタク、引きこもり、小児性愛者、インセルなど、被差別マイノリティとして公認されていない人」への差別は取り上げられない。もう一つは、批判の対象として取り上げられる表現が恣意的であるという事例である。ハロウィーンの仮装に顔を黒く塗るのは批判され、競技ダンスで肌を黒く塗るのは批判されない。このような場合わけも、これからの議論の手掛かりになるかもしれない。
 しかし、一般向けの短い論考に求めすぎかもしれないが、森論考ではただの差別と、悪い差別の間の違いがシームレスであることが強調されすぎて、批判すべき悪い差別的な言説をどう取り出せばよいのかわからなくなってしまわないだろうか。悪い差別を取り出すメルクマールとして、往々にして指摘されるのが「社会的な顕著性」や「歴史的な背景」や「侮蔑的demeaningであるという客観的な意味」であるが、森論考はこれをいずれも決定的ではないとしているようだ。そうであれば、何によって悪い差別を取り出すのだろうか。森論考では「差別とは、ある個人ないしは集団を別の個人ないしは集団よりも(不合理ないしは恣意的な理由に基づいて)不利に扱うことである」とある。この()の中の内容を定義に含めるか否かによって、差別がそれ自体として悪いものであるかが変わることになるが、「不合理ないしは恣意的な理由に基づいて」とは何を指しているだろうか。
 森(2019)の立場を参照すれば、市民としての対等と平等に基づいた関係が追求されるべきであり、それに反する差別が許されないということになるだろう。アイデアとしては、この市民としての対等と平等という観点から恣意的な切り取りのポリティカル・コレクトネスの問題を指摘するというのは面白いかもしれない。ポリティカル・コレクトネスは、特定の集団を顕著化された被差別集団として殊更に有標なものとして扱う。更には、過剰に代弁として語ることで、(他の)当事者を封殺してしまうことさえあるだろう。このような振る舞いは、代弁され保護されるべき人として特定の集団を扱い、対等ではないものとして表現していると言えないだろうか。問題は、ただ単に特定の集団や表現の仕方を恣意的に取り出していることではなく、ポリティカル・コレクトネス自体がその恣意性によって特定の集団を対等なものとして扱い損ねていることである。そして、これは森の考えに則れば悪い差別にあたるだろう。

参照
森悠一郎(2019)『関係の対等性と平等』弘文堂


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