メモ:ラズ『自由と権利』,VIリベラリズム・懐疑・民主制①

この項は長いのですが、ひとまずは「理のある」(reasonable)と「合理的な」(rational)の区別が面白いので、そこを書くつもりで、p189〜p209までのメモです。

A 内容のメモ

VIリベラリズム・懐疑・民主制

本稿での関心は個人的自由を尊重する道徳的論拠。これを単なる手続き的な道徳のみだけ擁護するのは間違っていると論じる。個人的自由を一つの積極的な価値として、自由な人格という道徳的理想の構成要素をして擁護する。

1 懐疑論の主旋律

A 懐疑論的寛容

教師の一人として、学生の間に、懐疑論的寛容というべきものが広がっていることを指摘する。すなわち、学生らは「自分の見解や原理を確かにもってはいるがそれを価値に関する懐疑や不可知論と結合させている。いかなる価値判断であれ、それを客観的に確証したり正当化したりする方法はないと考えている」(192)。いわゆる「それってあなたの意見ですよね」という態度が広がっているということだ。それをもとに、他者の見解を許容すべきだと考える。このような懐疑論は「他者の自由の評価に基づくのではなく、他者に対する距離感や、場合によっては相互的無理解に基づいた寛容にそれは導く。自由が尊重されるのはそれが貴重なものだからではなく、何事も道徳的法則力など持たないから、自由の抑圧もまた然りだからである」(192)

しかし、包括的懐疑論は局部的懐疑論から区別されなければならない。そして、上のような包括的懐疑論は一般的方針の正当化というものの余地を残さない。しかし、人々は自らの方針や考えを正当化する、説明するということができる場合はある。他方、局部的懐疑論について考えると、局部的に答えが出すことが難しいハードケースとなる政治的、倫理的論点があるとしても、そのときに問題となるのは我々の無知に対してどう政策的に対処するかであって、必ずしも寛容が導出されるわけではない。

B 矯正可能性と寛容

それでは、我々の可謬性は寛容の論拠となるだろうか?

「我々の可謬性の自覚が我々自身の信念への我々の確信を縮減することを正当化するという通念」があるが、「私の可謬性の自覚は私の信念に対する自信を掘り崩してしまうのか」?しかし、今私がnoteを書いているという信念を疑う理由はない。「正当化された確信は不可謬性への信念にではなく、自分が事実上間違っていないという信念に、すなわち、自分の誤謬を疑うべき理由がなく、証拠と状況により自分の信念を信頼すべき十分な理由があるという信念に依拠している」(195)。何か知識の条件が侵されていない限り、単に可謬性があるというだけでは、ある信念を証拠として利用することは妨げられない。むしろ、通常の知識は可謬的である。

「可謬性が通常の知識の条件の一部であることをいうことの承認は、批判的合理性の態度を支えている。この態度が必要不可欠なものとして含んでいるのは、(他者の意見への寛容ではなく)我々の通常の信念がまさに可謬的であるがゆえに矯正可能であり修正可能であるということの自覚と、我々の信念をいつでも再検討する用意である」。この批判的合理性の政治的な含意としては、「その活動と政策が再評価と修正に開かれている諸制度が存在し、健全な機能を営むことと両立不可能な政策は、他の事情が無視できるなら、避けられなければならない」という答責性が要求される。なお、未知の技術などの可謬性がより強い領域については、慎重さが求められるが、それは長期的な政策への支持に傾くだけで、寛容は必然的には意味しない。

C 価値の脆弱性

「価値の脆弱性」というと分かりにくいが、価値に対する我々の脆弱性という感じか。要は私たちは価値が関係する判断については特に間違いやすいということ。しかし、これが公的な判断が特に一般に誤りやすいということは意味しない。

D 理のある対立

価値判断をめぐる対立はしばしば理のある対立である。これは、自分の信念にも相手の信念にも、正当な証拠や経験の裏付けがあるが、生じている不同意である。例えば、それぞれの理解や経験の下では相互に十分な証拠を提出していたり、そもそも証拠の評価が難しかったりする場合などである。理のある対立は批判的合理性の発動を促しうる。

このような、理のある対立の存在は懐疑を広げるものではない。その道徳的含意として以下が述べられる。「理のある誤謬によって非行をした者は免罪さるべきである。(もっとも賠償はすべきかもしれないが。)同様に、非行が理のある誤謬に基づいていたという事実は、非行者の性格と徳性に関する我々の判断にも影響を与えるだろう。しかし、他者から理のある異論が出るような信念に依拠して行動することを、我々に慎ませるような含意はここには全くない」。よって、理のある対立が寛容のために提供する基礎は限られている。「理のある対立に基づく寛容の程度は次のように限定される。即ち、それが正しいという理のある信念のゆえになされた行為が犯罪にきるべきでないのは、かかる行為がたとえ法によって禁じられたとしても、依然その信念に理がある場合である」(203)。

一方で、信念に基づく行動ではなく、ただ信念を抱くことのみに対しての寛容ということが考えられていることにラズは注意を促す。こちらについては、特に遺存はないという感じだが、これは信念の発展や喧伝を放置することにはつながらないと指摘される。

E 半懐疑論と中立性

善の構想において対立するジョアンナとジョンの例が出される。このような状況に対する通常の反応は判断停止である。「自分が現在持つ構想を変える理由がないからには、傍の他者の構想よりそれが正しそうだとは言えないことを自覚しつつも、自分の構想に忠実であるのが最善である」と考える。しかしこのような正しいと確信はしてないが正しいふりをしているというような態度は緊張に満ちており、果たして本当に寛容に繋がるのだろうか?とラズは問う。

そこで、次のことが問われる。「ジョアンナは、他者が彼ら自身の構想に従って生きる方が、彼女の構想に従うより善い生を送れると信ずべき理由をもっているのか。仮定により答えは否である。彼女は自分の善の構想が、対立競合する他の構想と正しさの蓋然性において同程度であると信じている。それゆえ、他者が彼女の理想に従うよりも、彼ら自ら最善と信じる仕方で生きる方が善い生を送れると彼女が考えるべきいかなる理由も、他者の善の考慮から引き出すことはできない。確かに、彼らが彼女の理想に従うなら、もっと善い生を送れるはずだと彼女は考えていない。彼らの理想を排して彼女の理想を優遇する政策を、それが彼らにもたらす善を理由に支持することは、彼女にはできない。しかし、彼女がこのような政策を望む他の十分な理由をもつことは可能である。一番はっきりした理由は、それが彼女の理想の追求に資するということである。彼女が寛容政策を採択する理由をもつとするなら、それは以上とは別の考慮から導出されなければならない」(206-7)。

そこで提出される考慮が、人はそうすべき明確かつ実質的な理由がない限り、他者の人生に対する責任を引き受けるべきではないという弱い不干渉原則である。他者の善に干渉した場合、その結果の少なくとも一部は鑑賞者の責任となるが、それを引き受ける理由は基本的にない。これは、各人が他者に対してとるべき適切な態度を規律する原則であり、寛容のための重要な論拠になりうる。

B 感想のメモ

一般に言われがちな寛容の擁護論を細かく分けて見ていくという議論のスタイルがまずは参考になります。その上で、「理のある」(reasonable)と「合理的な」(rational)の区別が効いていると思う。訳注(4)の説明をひく。

理のある対立(reasonable disagreement)とは、対立する双方が自己の信念を支持する理由をもち、しかも互いに相手がそのような理由をもつことを承認できるような対立である。“reasonable”を「理のある」と訳したのは、これを「合理的(rational)」と区別するためである。本文の叙述から明らかなように、ラズは自他の主張のそれぞれの理由の公正な比較査定を「合理的」と形容している。相手の異論が「理のある」ものであることを認めつつなお、自己の見解の方が正しいことを我々は「合理的」に信じうる。従って、「理のある」判断よりも「合理的」判断の方が、間主観的妥当性についての反省的吟味を経ている点で、認識論的に優位に置かれていると言えよう。(242-3)

相互にreasonableさを認め合えるところに、すでに共通の基盤となる説明や理由のあり方があること。その上で、不同意があっても自身の確信を維持する合理性がありうることを、「理のある」(reasonable)と「合理的な」(rational)の区別を行うことで論証している。

これ、ヤングの『正義への責任』を読みながら、この区別を持ち込んで何か言えそうな気がしたのですが、どう持ち込もうと思ったのか忘れた。悲しい。思い出したら書きます。

付記

ヤングは非難と批判の区別を明示的に説明しませんが、その辺りに関わるようなことを考えていた気がする。もしくは、責任をどう置くかとか。prima facieに理のある批判とか、否定し難い責任みたいなものを考えているようなところがあるのではという気がしたという感じかな?ちゃんと考える必要がある。




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