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丹生都比売神社の四柱

前から行ってみたかった和歌山県にある丹生都比売神社へ今年の2月に訪れることができた。

雪景色を期待して2月を選んだのだけれど、ここ数日は晴天つづきで残雪も見あたらなかった。
この日は訪れる人も少なくて、ゆっくりお参りして境内を見て回る。



御祭神をみて、あれ?と思った。
【第一殿】丹生都比売大神
【第二殿】高野御子大神
【第三殿】大食都比売大神
【第四殿】市杵島比売大神

空海が高野山を開いたときのお話の中に、「丹生都比売大神」と「高野御子大神」はもともとその土地の神様であり、このニ柱の許可をもらって(導かれて)高野山にやって来たとあるけれど、「大食都比売大神」と「市杵島比売大神」は、え?なんで?と思ったのだ。

その後いろいろ調べてみると、若狭の八百比丘尼(不老不死)が鏡池に鏡を沈めたという言い伝えがあること。丹生大明神告門詞には、稚日女命=丹生都比売大神とあり、そして天照大御神の妹とされるのに、記紀神話には登場しないこと。また、丹生と名にあるにも関わらず農業・養蚕・織物の守り神とされていること。
狩場明神=高野御子大神であり、丹生都比売大神の御子とされるが、和歌山県内には別の一柱として祀る神社もあること。
大食都比売大神は食べ物を司る神だが、徳島県に祀られる神社がいくつかあり、敦賀にある氣比神宮の伊奢沙別命でもあり、敦賀では海運の神でもある。そして市杵島比売大神は言わずと知れた宗像三女神の一柱で、水の神。筑紫の海人の神だ。

なんだか、もう、支離滅裂だと思った。

でも、こういう風には考えられないだろうか。

元々、狩りをして暮らしていた高野の山に住む人々が祀る土地の神「狩場明神」と、朱の原料となる辰砂を採掘する人々(丹生氏)が祀っていた「丹生明神」。この2柱がいたところに、朝鮮半島から葛城氏と一緒に渡来してきた人々が、九州から瀬戸内海を通り、紀ノ川をさかのぼってこの地へやってきた。紀ノ川の北側にある山は葛城山だ。それと合わせて筑紫にいた海の民である紀氏も一緒にやってきた。
そんな彼らが祀っていた「大食都比売大神」と「市杵島比売大神」がそれに加わった。

古事記、日本書紀が8世紀につくられた。
この時点では、丹生都比売大神ではなく、「丹生明神」だったので、記紀にも記されなかった。

その後、818年に空海が嵯峨天皇から許可を得て高野山を開山。
天皇の許可を得て開山しているのだから、当然祀る神々の世界でもそれを表す必要があると考えた。そこで、八百比丘尼(654年から800年生きた)が不老不死、若々しく美しいままで諸国を巡ったという伝説、織物の稚日女命を織り交ぜ、「丹生明神」を天照大御神の妹である「丹生都比売大神」ということにし、「狩場明神」をその息子「高野御子大神」とすることで、朝廷の信仰との上下関係をつくることにも見事成功。空海はこの二柱の許可を得て、高野山を開いたということにした。

丹生大明神告門詞は、こう記す。

天野原(あめののはら)に上り坐(まし)、
皇御孫(すめみま)の命(みこと)の宇閇湛(うこへ)の任(まにま)に
於土(うへつち)をば下に掘り返し、下土(したつち)をば於(うへ)に掘り返し、
大宮柱(おおみやばしら)太知(ふとし)り立て奉り給ひ、
高天(たかま)の原に知木(ちぎ)高知り奉り、
朝日なす輝く宮、夕日なす光る宮に、
世の長杵(ながき)に常世の宮に静まり坐(ま)せと申す。

丹生大明神告門詞

これは、私の妄想だけれど。


ここから物語はフィクションとして、続けて行きたいな。

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