見出し画像

ぐらしってなに?《疑問ググログ》

 はじめに断っておくけれど、今回は娘からの質問に関してググりもしなければ、図書館へ出かけることもしなかった。暖かい午後、娘とふたりでスーパーへ歩きながら、勝手に解決してしまった話である。
「ぐらしってなに?」
と、娘。
「ぐらし、ってなによ」
「あのーすみっこぐらしのぐらしですけど」
「あー、ぐらし、ね」
 文学部に入学して、言語学の授業で最初に聴いたのは、日本語の連濁現象について、だった。
 記憶を頼りに綴るので、不正確かもしれないが、2つの語がくっついて複合語を成すとき、後ろにつく語の頭の音が濁音化する、そういう現象が起こるが理由がなぜだかわからない、そんな話だったかと。
 これだけだと何のことを言っているかわかりにくいので、実例を示すと、
 「たて」という語があり、「しま」という語がある。縦に縞の入った模様のことは「縦の縞模様」と言うよりも、「縦縞たてじま模様」と普通は言うだろう(いや、普通はストライプって言うだろうとの指摘はご遠慮いただきたい)。
 このとき、「たて」の後ろにつく「しま」の頭は「じま」と濁っている。「たてしま」とは読まず、「たてじま」という。これが連濁現象である。
 これはいつも起きるわけではなく、どちらかというと「よく起きる」現象、といったほうがよさそうで、例えば人名や地名の場合は当てはまらない場合がよくあるので注意が必要だ。「中嶋」さんは、「なかじま」さんのこともあれば「なかしま」さんのこともある。自分の場合は「なかしま」のほうが記憶には強烈に印象が残っているが、その理由については立ち入るまい。
 「湯」と「豆腐」で、「湯豆腐ゆどうふ」。熱い湯豆腐をふうふう息をかけて食べながらロンドンの有名な橋?を渡れば、「湯豆腐ゆどうふロンドンばし」である。
 ちなみに「安物買い」は「やすものがい」と読むが、「マッチ売り」は「まっちゔり」とは読まない。濁点をつけられる仮名に無条件に濁点がつくわけではないのだ。漫画などでは「い」にも濁点がつけられるが、「パイプ椅子」に連濁現象を当てはめて読もうとすると、想像するだけで、痛い。パイプ椅子の連結部に指を挟んだような幻痛が走る。
 さて、自分が大学生になるまで気になることもなかった「連濁」については、娘に「ぐらしってなに」と問われたときはいったんスルーして(いまから思うと、そのとき連濁遊びをやってみると楽しかったかもしれないが)、
「うーん、くらしはね、」
とちょっとはぐらかして回答をはじめた。
「寝たり、起きたり、食べたり、保育園に行ったり、仕事をしたり、そうやって一日を過ごすことが、暮らしかな」
「ふうん、なんですみっこぐらしはすみっこでくらすん」
「好きなんちゃう、すみっこ」
 目的のスーパーはすぐそこだった。エビフライのしっぽを見ようかな。いや、まずは「サク山チョコ次郎」を探すんだ。そのために来たのだから。

 しかしそのスーパーまであと少しという地点で、「暮らし」ということばの実感が、つないだ娘の手から伝わってくるような気がした。

 つれづれなるままに、ひぐらし

 一日というものは、暮らし、つまり朝起きてから日が沈みきるまで、日を「暮れさせていく」ものではないのか、と。
 自分にはゆったりとした時間の感覚というものがない。退屈するということが久しくない。隙間時間があれば本を読むか、音楽を聴くか、考えごとをするか。5分だけでも寝て脳を回復させるか。極めて多忙なビジネスマンみたいなことを言っているが、そうではない。障害者雇用枠で働く一介の事務員である(ちなみに事務職というのが自分は好きである。とかく下に見られがちな職種であるとは思うが、なかなかどうして誇り高き職業であることは、自分の周りの女性たちを見ても納得できる)。たとえ残業なしで帰宅する日々であれ、スピードの速い現代の時間を惜しむような貧乏性の人間には、一日というのはあっという間である。気がついたときには棺桶に入っているかもしれない。
 最近、テレビもゲームも禁止された時間帯の娘が、虫のさなぎみたいに部屋に転がっているのを見ることがある。
「ちぇっ、ほかにすることがないのかよ、なさけねえ」
と内心思ってしまったりするのだが、自分の子供の頃にした退屈を思いだして、とっても懐かしい気持ちになるのだ。
 幼稚園から帰って、もちろんYou Tubeなどない時代、しかもテレビではアニメどころか、意味不明なだらだらしたエッセイみたいな番組しか放映しておらず、大人たちは仕事で相手をしてくれない。折り紙、カレンダーの裏への落書き、本、レゴ、庭で毛虫や蟻探し、うろうろ。昼寝をしろと言われたけれど、眠くないのに寝ろとは、生きながら死ねと言われているようで嫌だった。退屈が山ほどあった子供時代だった。何かをしながら時間を「つぶし」、「日を暮らし」ていた。やっと日が暮れかかるとアニメの放映も始まり、夕飯になって、ようやく時間の滑車の回転する勢いが感じられるようになる。
「暮らし」というのはそういうものではなかったか、と、ふと、ひさしぶりに特に用事もない午後、「サク山チョコ次郎」を探す旅に出かけて娘と手ぶらで戻って考えた。
 なに、「暮らし」とは何かに答えられたとは思っていない。馬鹿で阿呆で使い道のない役立たずの男の単なる「浅知恵あさぢえ」に過ぎませんよ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?