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カエターノ・ヴェローゾ《iquotlog:天才的一般人の些細な日常》

 最近、寝る前に映画を観る時間を夫婦で作ることができていて、撮りためた録画を消費するように過去のストックから作品を取り出して観ている。
 『愛の神、エロス』、こちらはウォン・カーウァイ、スティーヴン・ソダバーグ、ミケランジェロ・アントニオーニの3監督が「エロス」をテーマに撮った短編をオムニバス形式でまとめたもの。幕間に「エロス」を主題にしたであろう古代の壁画風の絵画が画面に映し出されるのだが、そこで流れるのが、カエターノ・ヴェローゾが歌う「ミケランジェロ・アントニオーニ」という曲。これがなかなか印象的な曲で、映画を観終わったあとにAmazon Musicで流して、余韻を「作り出して」浸った。
 最初のウォン・カーウァイの作品は素晴らしく情感豊かで示唆に富み、「なるほどこれぞエロス」と思える。ソダバーグは面白く小賢しくて楽しめたが、アントニオーニのは地図帳で「エロス」という南欧の町を見つけた中学生の興奮くらいにしか響かなかった。
 アントニオーニの映画は『夜』とか『欲望』とか名前だけ知っていてまだ観たことがないのだが、このアントニオーニの「エロス」ばかりは「?」だった。なんだかウォン・カーウァイの作品をを2人がかりでリレーしながら台無しにしたような感じなのだが、もしかしたらカーウァイだけ、企画そのものがジョークだということを知らされていなかったのかもしれない。
 でもカエターノ・ヴェローゾの歌が最初と幕間と最後に流れるので救われた、そんな感じである。
 そしてペドロ・アルモドバルの『トーク・トゥ・ハー』。こちらの映画は劇中にカエターノ・ヴェローゾ本人が「ククルクク・パラオ」を歌う場面がある。この歌が魔術的にこころを捉えるのである。チェロとコントラバスをバックに、カエターノが鳥がのりうつったかのような美しい声で歌う。主人公のひとりも涙を流しながらそれを観ている。妻も映画を観終わったあと、「あの歌が震えるほどよかった」と言っていた。

 最近になって妻と観た映画に、偶然カエターノ・ヴェローゾが続いて出てきたものだから、その話をnoteに書こうと思う、と伝えようと、日曜の夕方、カフェから帰ってきた彼女に、
「カエターノ・ヴェローゾのことをね、書こうかと・・・」
と話しかけると、
「え、怪盗?」
「いや、カエターノ・ヴェローゾ」
「階段のヴェローゾ?」
「いや、だから、最近映画で観た、カエターノ・ヴェローゾ、ほら、エロスの神、いや、愛、愛? ほら、愛の神、エロスの、ほらウォン・カーウァイの」
「カイ? カエ?」
「カエ、ターノ、ヴェローゾ。ほら、トーク・トゥ・ハーで、ク・ク・ル・ク・クって歌ってた」
「あ、あの歌!」
「そう、あれが、カエターノ・ヴェローゾなんやけど」
 こうしてあれほどぼくたち夫婦のこころをふたつとも捕らえたはずの歌手の名前を、妻の脳裏のディスプレイに表示させることができた。
 ウィンドウズのコマンドプロンプトとか、そういうものを使う人はもうプログラマーみたいな人種しかいないだろうけれど、何度もコマンドを打ち間違えて、やっと目当ての表示を得たときのような気分だ。そもそも何をしようとしていたのかを思い出すのに少し時間がかかる。
 それでようやく妻に、たまたまカエターノ・ヴェローゾの曲を、これまでほとんど聴いてこなかったのに、たまたま映画で初めて知って、いい曲だったよね、ちょっと不思議だよね、と話を続けることができた。
「ククルククはね、メキシコの歌らしいよ」
「知ってる!」
「え、え、知ってるん!?」
「いや、知らんかったけど、鳥はな、神様やねん」
「そうなんや」
「南米の、スピリットみたいな」
 見ると妻は左手に桃、右手に包丁を持っていた。真剣な目で、鳥が精霊であることを訴えてくる。そのときの彼女がある種のシャーマンのように見えて、カエターノ・ヴェローゾが吹き飛んだ。そういえば海の風によくそよぎそうな名前だ。
 妻はよしもとばななの『鳥たち』という小説を持ってきて、鳥が神に世界の滅亡を思いとどまらせるという詩を見せてくれた。
 ぼくはその詩を読んで感銘を受けた。
 カエターノ・ヴェローゾ。
 夜、皆が寝静まった寝室で、ぼくもいつのまにか、
「ク・ク・ル・ク・クゥ」
と静かに口ずさむようになっているかもしれない。

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カエターノ・ヴェローゾの「ククルクク・パラオ」はこのアルバム

「ミケランジェロ・アントニオーニ」は、ステファノ・ボラーニというイタリアのピアニストの、こちらのアルバムで歌われている。

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