キリン堂にて《zaccanto》
髭を剃るのに使うのは、これまでずっと安全カミソリである。安全でない剃刀は、理髪店で使われている類のカミソリであり、他にカミソリといえば電動カミソリであり、という認識だが、合っているのだろうか。きっと事実はそうでないのだろう。調べてみないといけない。
安全カミソリにこだわって使っているわけではない。ただ惰性でずっと使っている。ブラウンの電動カミソリがとてもいいと同僚に勧められて、そのときは購入を検討しようかとなるのだけれど、家に帰ってヒゲを剃る必要がなくなると、それを妻に話すことも忘れる。
自分が安全カミソリにもしこだわっているとするなら、ビートルズの最初の映画、A Hard Day's Nightでジョージ・ハリソンがポールのじいさんに安全カミソリの使い方を指南する場面が記憶の表面にこびりついているからだ。1980年生まれの自分が、動くビートルズを観たくて、何度も観た映画の特にその場面。たぶん、髭を剃ろうと鏡の前に立つたび、あのシーンを思い出すからなのだろう。そして思い出すたびさらにシーンは強く記憶に貼り付くのだ。
ここ何日かとても疲れていて、精神的に参っていたので、きょうは仕事の休みをとった。今も月に一度は精神科に通うが、たまに自分のメンタルをチューニングしないと不調が長引いてしまう。保育園に連れて行くのも骨が折れるので、6歳と3歳の子どもたちと家にいることにした。彼らとできるだけゆったりと家で過ごそう(とはいえ、午前中は片付け、あとはポケモンの映画を一本みせておいて、自分はテーブルに座ってコーヒーを飲んでいた)。
昼、3人でキリン堂へ昼食を買いに出た。
6歳の娘はおにぎりがいいと言い、3歳の息子はきのうピカチュウの短編映画を見て喜んでいたので、彼にはポケモンのカップ麺を買ってやろうと決めていた。
あと、剃刀の刃が古くなって本当に剃れなくなってきたので、いま使っている本体と刃の写真をスマホで撮っておいた。替刃なんて498円くらいであるだろう、と。
キリン堂のおにぎりは税抜きでひとつ78円、3つで198円と非常に安くて、いつ見ても品薄な気がする。娘は「うめ」がよかったのだがもう売り切れていて、「おかか」にした。3つ買うと安いので自分も食べようと棚を眺めると、「さばマヨネーズ」と「ピリ辛辣油タケノコ」という見たこともないセンスの具があったので2つとも買った。
息子はピカチュウの顔の前面に描かれたカップ麺を見せると、案の定「か、ちゅう! か、ちゅう!」と言い出した。棚から取って与えると早速レジに並びにいこうとする。
「ちょっと待って!」
ここからが大変だった。
息子を抱っこして捕獲し、娘に買い物かごを持ってもらって、髭剃りコーナーへ。シックの髭剃りはすぐわかったが、替刃の値札を見て仰天した。少なくとも2,000円以上はする。嘘だろう、これは夢に違いないと思って、商品を手にとってみようとするが、棚の前に屈んで片腕に息子を捕獲しており、商品は値札に隠れ気味のフックに、妙な角度でぶら下がっているのかなかなか手に取れない。そのとき、無意識に、壺を置くように、息子を自分のそばに置いてしまった。そしてまるで施しを受けるときのように呆然として高額な替刃を手に取った。
しかしその替刃の対応する髭剃り本体等を確認する前に、息子が走り出してしまった。
「だめ! まって!」
と娘の声がそのあとを追いかけていく。自分もハッとして替刃を掛けにくいフックに戻し、子どもたちを追った。息子は店の自動ドアから外に出ようとしていた。
ほっとしたその帰り道、髭剃りに詳しい店員がいないかどうか、子どもを抱きながらしばらく店内をさまよった。数十秒で、髭剃りに詳しくなくていいから誰か話せる店員はいないかと考え直していた。女性店員のエプロンが見えた、と思ったら、化粧品コーナーで誰かの応対をしている。
そのとき、レジに店員を呼ぶときに鳴るベルの音がした。
「よし、ここに立っていれば店員が網にかかる!」
良心の呵責など微塵もなく、「レジ対応」のカードより、自分の手札にある「客の商品問い合わせ」カードのほうが強いはずだと確信していた。
やはりそうだった。走ってきた男性店員に声をかけて、髭剃りの替刃のことで聞きたいことが、と言うと、彼は自分といっしょに来てくれた。
スマホに撮った写真を見せて、
「このタイプの髭剃り本体には、この高額な替刃しか対応しないですか? なにかこう、もっと安いのは、合わないんでしょうか」
店員さんも、店の扱う商品についてなんでもかでも知っているわけはないとは思うのである。その男性店員も商品の裏を見ながら、
「これはHYDROタイプ用ですね」
と、両手さえ空いていればぼくだってわかることを説明してくれる。そのHYDROタイプ用のが件の高額商品だったので、安い替刃の方を見てもらって、家にある髭剃り本体に適合するかどうか知りたかった。少し手を伸ばせば届きそうなところに安い替刃がある。店員さんも気を利かせて取ってくれればいいのだが、レジに立って客を待っているのと変わらないくらい動かない。だから自分から商品を持っていかなければ、と、そのとき、また無意識に、壺のように、息子をそばに置いてしまった。
そしてまた逃走する息子。
だが今度は店員に安い替刃を渡して会話がスタートしてしまっていた。ここで女性店員なら、まず間違いなく話を切って「あ、お子さんが!」となるのだが、自分が捕まえた男性店員はまったく意に介さずに安い替刃の裏を見て、
「この商品がHYDROタイプに合うとは書いていませんね」
と教えてくれる。それは自分でも読めばわかるはずだった。なんで店員を呼んだのか、もはやわからなくなっていた。とにかく、息子が逃げてしまった。
「外に出たらだめ!」
と娘の声がする。慌てて子どもたちを追う。息子が逃走してここまで何秒くらいだっただろうか。
自動ドアを出たすぐのところに、娘が息子に通せんぼしてくれていた。
息子は、「こ! こ!」と言いながら、店外のトイレを指さしている。
「おしっこ? おしっこしたいの?」
「こ! こ!」
息子はおむつをしているが、この、自分でトイレに行くという息子のサインを無視したくはない。成長の意欲を大事にしたい。そう、無視したくはない、大事にしたいけれど、今はもう正直オムツにしてほしい。でもー、と思いながらとりあえずトイレに連れて行った。小便器が空いているのは確認したが、息子はまだ立っておしっこができない。まずズボンを脱がせて、オムツを脱がせて、あっ、短時間の外出だからオムツポーチ持ってない。
それで、そのときはまだ掃除用具入れだと思っていた扉の前で、
「おしっこ? おしっこしたいの? トイレ?」
「こ!」
と再びバタバタ問答をする。すると、掃除用具入れと思っていた扉の内側から、
ガタガタ、カラカラカラッ
と音がしはじめた。
「しまった、ここ、人が入ってた!」
と、心の中で叫ぶ。
レジ前で店員を横取りすることには少しもやましさがなかったのに、トイレでゆっくり用を足していた誰かを急かしてしまったのは気まずかった。さらに悪いことにキリン堂の店外トイレは男女兼用である。中におられるのは何性?? 油性?
咄嗟に、
「きみはオムツ履いてるから、もうオムツにしなさい!」
と、トイレの中の人に聞こえるように精一杯声を出し、息子を抱きかかえて店内に駆け戻った。
そして髭剃りコーナーでもう2,000円でもいいからと、万引きのスピードで替刃を取ってレジに並んだ。もう迷いはなかった。たぶんすごく疲れていたんだと思う。
今も動悸が。
妻が帰ってきたら、2,000円もする替刃を買った事情を説明しなければ。いや、もういい、これを読んでもらえればわかってくれるだろう。許してくれるだろう。
ハイドンの作品55の四重奏曲には、「剃刀」という愛称のついた曲がある。作品20以降の四重奏曲はすべてCDで持っているはず、と、昼食後に棚を調べた。子どもたちが生まれる前は整然と並べられていたCDたちも、とにかく引っ張り出されてぐちゃぐちゃになってそれを雑然としたまま突っ込んで、ただただ混沌とした並び。
やっぱり欲しいときに見つからない。
目はスキャナーではない。
数百枚のCDが並ぶ棚を3周くらいしてやっと見つけた。
ハイドンの曲にはニックネームのついた作品が多い。母数が多いので、ニックネームのついている割合としては特段多いわけではないかもしれない。しかしニックネームがあっても標題音楽ではない。ニックネームの由来は様々で、「剃刀」については、ハイドンによく剃れる剃刀をプレゼントした誰かに、作曲者が返礼として贈った曲だとか、そんなエピソードだったかと。曲に剃刀のような切れ味がある、とかそんな意味ではまったくない。
何年かぶりにトレーに載せた。よく聴く曲ではなかったので、どんな曲だったかまったく記憶になかった。
短調の曲だった。
疲れたよ、ハイドンさん。
剃刀ってそんなに高額なものですか。いやけして、あなたが安い曲を書いたとか、そういう意味ではまったくなくてですね。
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