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モチベーショナルスピーカー《zaccanto》

 noteやInstagramを地味にやっていると、ときどきこの人はなんで自分の投稿に「いいね」してくれたんだろうと思うことがある。
 先日、noteでまあまあ字数のある記事を投稿したら1秒くらいで「いいね」してくれた人がいて。そういうことがあるとぼくの場合、読んでないのに「いいね」したよね、と思ってしまう。好意的に、手が滑って「いいね」したんだね、と思う人もいるかもしれない。
 それでも、やはり記事を読んで「いい」と思ったから「いいね」したんだ、と考えるならどのような可能性があるだろう。

かなりの速読家で、1秒あれば記事を読み、何らかの感想を持つことができる

 だがそんな人がいたとして、ぼくにはその人の生活を想像・理解することは難しいなと思う。すごく短い時間に通常の人の何倍かの速度で認識・判断できるとしたら、その人がゆっくりコーヒーを飲むということはどういうことなのだろうか。通常の人より、毎日の生活の中にかなり緩急の差があるのではないか。人より何倍もの速さで思考ができたとしても、身体の動きの速度が常人と同じであれば、思考と行動のバランスが普通の人とはかなり異なるはずだ。普通の人たちの中で生活するのはきっと苦痛だと思う。
 自分なら進んでそうなりたいとは思わない。
 が、そういう人が目まぐるしいいろいろな現象の中で「いいね」してくれたと思うと、申し訳ないくらいありがたい気もする。
 では、そういうのは稀なことで、やはり読まないで「いいね」した確率のほうが高いのだと考えると、それにはどんな場合があるか、続けて考えてみよう。

タイトルに「いいね」している

 これはタイトル評論家みたいなタイプの人で、記事は読まず「タイトルだけ見ていいと思ったらいいねする」人である。ぼくが投稿して1秒ほどで「いいね」してもらった記事のタイトルは、

着信した感じ

だった。確かにタイトルだけでイケているかもしれない。逆にタイトルはよかったけど、中身は微妙・・・かもしれない。だがとりあえずタイトル評論家は「いいね」の取り消しはしないらしい。タイトルだけで写真も投稿本文もないSNSは寡聞にして知らないけれども、需要があるなら誰かが今後作ることになるかもしれない。
 さて、読まないで「いいね」するには他にどんな可能性があるだろか。

「いいね」してから記事を読む流儀である

 人にはいろんな性癖があるから、特に無害なものに難癖をつける必要はない。読もうと決めたときに、まず「いいね」してから読む「いただきます」タイプの人だっているのではないか。
 あるいは「あとで読む」機能を知らなくて、しおりを挟むみたいに「いいね」を使う人か。「いいね」した記事は、noteでは「スキした記事」でたどれるので(ここまで書いて、noteでは「いいね」ではなく「スキ」だったと気づいた。おそるべし、「いいね」という語の影響力)、「いいね」しておいて「あとで読もう」という習慣の人もいるかもしれない。その後、忘れられることも当然あるのだろうし、むしろ忘れられるほうが多いのだろうけれど。
 このような「先いいね後読み」タイプを他にも考えることはできるだろうが、最後にひとつだけ最も可能性が高いと思われるタイプについて言っておきたい。

機械的無差別戦略爆撃的に「いいね」している

 これは特定のキーワードをタイトルや本文に含む記事が投稿されたら自動的に「いいね」するプログラムを組んだ人、でもいいし、noteのアプリを開いたら上から順に何も考えないで「いいね」していく「不動産チラシポスティング」タイプの人、でもいい。同じことである。読みもしないし、感想も持たない。たとえ万一あとで会うことになっても、

「○○さんがぼくのnoteにスキしてくれたことがうれしくて」
「え、なんの記事? いや、いいよねー、あれ。読んでていいなーと思ったんだよね」
「『着信した感じ』って記事なんだけど」
「そうそう、いろいろ読むけどさ、いいよね、着信した感じって。よかったよ!」

と、このように「いいね」以外に語ることはないのである。要は「いいね」きっかけで自分のことを知ってもらえればいいという人。
 きょうもInstagramの読書好きの人向けのアカウントで『機能獲得の進化史』という本を紹介したら、

なんか肩書き?能書き?に「モチベーショナルスピーカー」と書いてあるアカウントからすぐさま「いいね」がついた。
 モチベーショナルスピーカーってなに? Bluetooth接続して使えるの? 音質は? Alexa搭載してるの? とか、そういう話ではもちろんない。なんか、人がやる気を出せるように喋る人らしい。
 そういう存在が必要なことはわかる。なんか現状に満足できないな、動き出したいけど何からすればいいのかわからないな、誰か背中を押してくれないかな、そういうときに発破をかけてくれる人はありがたいものだ。結局は自分が動き出すしかないのだけれど、きっかけになる言葉や出来事というものはある。
 ただ発破をかける人だらけだと、世の中爆発ばかりでたちまち荒廃してしまい、ノーベル賞なんて贈っている場合ではない世界になる。
 モチベーショナルスピーカーのアカウントを見ていると、さながら名言の100円ショップで、ああ、こんな言葉にもここで出会えるんだ、的ないい出会いもあるにはあるがあまり見ていると少々胸焼けがする。年間200冊読破とも書いてあって、ははあ、ぼくの倍以上読むんだすげえ(とは思わないけど)、そこからいろいろ引用してくるんだな、と。油のしみこんだ日めくりカレンダーみたい。
 で、「影響力を持ったら何に使う?」みたいなことも書いてあって(文字ばかりの画像に)、頻りに「人のため」「社会のため」っておっしゃるのですが、

「脳に買いたいと思わせるテクニック」

なんてのもあちこちにあって。要は人を心理操作して商品を買わせようと。それはそれで商品を売りたい人は考えることなんだろうけれど、そこにおいては「商品を買う人」はカモだと思われてるんじゃないですか、と思う。「人のため」「社会のため」って言われると、その「人」やら「社会」からはカモは除外されるんですかねと考えてしまう。カモの権利のことをどう考えられますか、と。
 この種の「言わずもがなの立派な建前と自分の利益優先のセット」が、ぼくにとっては「この世に存在すること、生きること」のモチベーションを下げる最大の敵だ。国にしろ会社にしろ宗教法人にしろ、そんなあり方は当たり前じゃないかと思われる向きもあるかもしれないが、ばらばらの個人の集まるスペースでもそういうのをやられるのは自分にはノイズでしかない。だから「いいね!」してくれたモチベーショナルスピーカーさんは、すごくぼくのモチベーションを下げてくれるわけで、こんな人々込みでSDGs、2030年までに、って到底無理なんじゃないかという悲観論を一瞬抱いてしまうのである。ノイズに過ぎないので無視すればいいのだけれど。
 とはいえモチベーショナルスピーカーさんのような人も誰かのカモにされたんだろうなあとも思うのである。ひっかかっちゃってるんだろうなあと。考えるとどんどん悲しくなる。
 できればこのようなカモカモした人は人類のほんの一部だと、まだ救える範囲内なのだと思いたい。ネットを離れればそうそうカモカモした人にはあまり出会わないわけだし(ぼくの経験では)。
 しかしもし今後人をカモと考えるカモカモおカモ勢力が優勢になり続けたら、この世はとうとうおしまいだなと思う。
 ああ、主よ。


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