小説という読まれえない物語

 とある事情から、ぼくは昨今の平均的な18歳の生態について知っている。
 偏差値50帯の都内の大学1年生たち。つまり、平均的な18歳だ。大学に進学できているだけ、むしろ同世代の中央値よりも学力的には上位にいるといっていいだろう。
 なんと彼らのうち少なくない層が、改行という概念を知らない。信じられないかもしれないが、これは事実だ。ゆえに、彼らは作文というものができない。つまり、日本語を書くことができない。そしておそらく、まともに読むこともできない。識字はできるかもしれないが、識読はできないのだ。
 だが、彼らには彼らの楽しみがある。ともだちとは遊びに行くし、ゲームはするし、スポーツもおこなう。少なからず文化的な趣味もある。高校時代に吹奏楽をやっていて、いまも趣味で楽器を嗜む子もいる。漫画を読むこともある。映画を観ることもある。アニメはメジャーな趣味だ。
 が、彼らが小説を読むことはない。
 まったくもってない。
 本当に、まったくない。
 ぼくたちがまず認めなければならないのは、小説を読むという行為が、れっきとしたマイナー趣味になったということだ。
 もうこの事実から目を背けることはできない。一般的な若人たちの趣味においては、「うどんを打つ」「壺を焼く」「フライフィッシングをやる」とそう変わらぬポジションに、「小説を読む」がある。
 そういう世界で、ぼくたちは小説を書いていく。

納得と同意がある

 はじめに書いておくが、罪びとを探すつもりはない。つまり、だれが(なにが)小説を読まない環境に導いたのか、という話をするつもりはない。
 要因ならばいくらでもある。2011年にスマートフォンが本格普及しはじめて、人間がひょいと空いた時間にやれることが、これまでの比ではなく爆増した。この数年で各種サブスクリプションサービスが潤沢になって、だれもがなにかしらのサブスクに加入している時代となった。
 コロナの影響でリモート飲み会という概念が広まったことで、オンライン通話にも抵抗のない人間が増えてきた。かくいうぼくも、月一でともだちと集まってプレイしていたオフラインのボードゲームの集まりが、コロナのタイミングでDiscord集会へと変わり、今ではボードゲームに関係なく、さながら学生時代の部室のような入り浸り方をしている。
 夜になると無料のオンライン通話をしながら、AmazonPrimeやNetflixでウォッチパーティをおこない、無料で公開ちゅうの漫画をブラウザの画面共有で読み、基本プレイ無料のゲームを協力プレイしている。
 ネット代を含めた光熱費、勝手にクレジットから引き落とされているから、まるで払っている気のしないサブスクの契約料。かかっているお金はそれだけだ。今はもう、個別のサービスにアクセスするのに、ほとんどお金は払っていない。せいぜい映画館に行くときくらいだが、それもどうしてもスクリーンで観たいものにかぎっている。どうせ2カ月もすればサブスクに来るなら、わざわざ重い腰を上げる気になる映画は少ない。

 長くなったが、なにがいいたいかというと、2023年を生きる青少年各位が小説など読まなくなったのは、しごく当然だということだ。
 まったくもって驚きはない。なんといっても、ぼくが中高生のころから、基本的にはそうだった。流行にたいする強い逆張りの意識でもなければ、教室で安部公房の戯曲を読むような十代のこどもはあらわれない。そしてそういう層は、つねに全体の1%に満たない。
 今はその傾向が加速しただけだ。行き着くところまで行ってしまったというだけで、現状に意外性はないのだ。
 高校時代のぼくのことばを持ってくるなら、「さしておもしろくもない小説を、さも稀代の名作であるかのように祭り上げ、無理やり客に買わせるような、狼少年のような商売ばかりしていれば、いずれだれも見向きしなくなる」ということになるが、これも数多ある要因のひとつにすぎず、本質ではないのだ。
 実態は、ただの市場淘汰の結果である。
 果たしておもしろいかどうかわからない、読み通すのに時間がかかり、なによりも努力が必要となる娯楽品(というか、本当に娯楽品なのか?)に、ひとびとが好きこのんで800円を払うような時代ではない。
 ことに、ブルーアーカイブ最終編第4章が0円で読める以上は。

 そもそも昔から、この国の平均的な人間に日本語は読めないのだが。

 だから課題は、読み手にはないのだ。彼らはこれまでの傾向を踏まえて、このまま加速度的に読書から離れていくだけだ。そうしたシステムはだれにも止めることはできない。
 ゆえに、課題はこちら側にあると言える。
 つまり、書き手の話だ。
 今、読者はすさまじい勢いで減っている。日本とかいうよくわからん極東の島国において、娯楽小説というマイナーなジャンルはまぎれもない氷河期を迎えており、おそらく春はやって来ない。
 この再三にわたって訴えている圧倒的な事実を認めたうえで、わわれれはとある命題に向き合っていく必要がある。
 それは、われわれがこの厳しい環境で、今後も小説を書いていきたい理由ではない。
 問うべきは、なぜ小説を書かなければならないのかである。
 そう、あなたは書かねばならないのである。
 悪いが、あなたには今後も書いてもらう。だれも寝てはならぬし、だれも船を降りてはならぬし、だれもペンを置いてはならぬ。
 申し訳ないが、嫌でも書いてもらう。

 その理由は、よくSNSで見かける安いオチの漫画のように、ぼくが読者として読みたいからだッ!などという話ではない(むしろぼくを読者として見立てた場合ならば、べつに大半のひとは筆を置いてもらってかまわない)。
 ではなぜこう言っているのかというと、あなたがたが小説を書くのは、ぼくにとって有用なのではなく、ぼく以外の人間にとって有用だからだ。
 小説は、必要な存在なのだ。
 そう、どう厳しく採点しようとも、小説というコンテンツは必要なものだった。
 たとえ市場が否定しようとも、人間が今後もまともにやっていくためには、小説は存在していたほうがいいものだという結論が出てしまうからだ。

 世のなかにさまざまな娯楽媒体が増えたのはたしかだ。そして、その大半にお金がかからなくなったのも、またたしかだ。
 が、小説という媒体は、残念なことに唯一無二なのだ。
(そう、残念なのだ。もしも小説に価値がなかったら、話がこじれることはなかった。市場にぷちっと潰される姿に、たいして感慨を持つこともなかった。そういう意味では、残念というよりも面倒だといえる)
 なぜなら小説というものは、今ある娯楽のなかでほとんど唯一、脳が積極的にならなければ摂取することのできない媒体だからだ。
 ぼくはこのメカニズムは、こう喩えるのがもっともわかりやすいと思っている。「小説とは、本文というソースコードを、読者の脳がコンパイル(実行可能な言語として変換)しなければならないものだ」。
 これはエンジニアでなければ理解しづらい話かもしれない。が、もっとも適切な喩えだと思っている。
 小説には文章が書かれている。そしてそこに書かれている文章とは、実はあなたにとって正しい状態ではない。あなたにとって正しい状態とは、もとのコードを解析し、翻訳された、あなたのなかで再生される光景なのだ。
 あなたは本文を解析したあとで、その情報を基に、あなたの脳内で情報を変換し、実行しなければならないのだ。そうした行為を、あなたは無意識のうちに、毎文のようにおこなわなければならない。

 もっとわかりやすくいえば、小説とは伝言ゲームだ。さらにいうなら、正解のない伝言ゲームなのだ。「振り向くと、嘘のような美人がこちらに微笑んでいた」。こんな簡単な文章でも、ぼくが想像した美人と、あなたが想像した美人は、風貌が異なる。
 なにを当たり前のことを、と思われるかもしれないが、この異なるという事実が、なによりも肝要なのだ。あなたは本文というソースコードを基に、自分の頭のなかで光景を写像した。
 写像するのは顔の造形ばかりではない。小説のなかで描かれる登場人物たちの心情、行動、動機、人となり、そのすべてを、可能なかぎり自分に理解できる言語で解釈し、写像し続けなければならない。
 小説は、ほとんどなにも明示してはくれない。この紙に印刷されているのは、たかが文字列だ。いうならば、記号の羅列だ。その暗号を識読し、解釈し、自分のなかに鏡像を作り続ける。小説が読者に要求しているのは、際限のない写像行為なのだ。作家たちは、あなたがたを暗室に閉じこめ、そこでプリントさせ続けている。


 映画やアニメにも、たしかに物を解釈する余地はあるだろう。映像作品に深みがないとは、もちろんいわない。だが、(あえて強い言葉を使うが)格が違うのだ。小説が相手に要求する写像の負担は、はっきりいってレベルが違う。映像がメガバイトであるなら、こちらはテラバイトだ。
 小説という媒体はそれだけ不親切であり、ゆえに、それだけ受け手の成長をうながす重要な教材なのだ。
 これは賛否を生む言い方であることは自覚しているが、じつは、小説家が壮大な世界を書いているのではないのだ。壮大な世界を描画するように強いられているのは、つねに読者のほうだ。
 小説家にできるのは、自分が想像した情景を、可能なかぎり近いかたちで読者が再現できるように、できるかぎり気を遣ってソースコードを残す程度のことである。それも、ただ物理的な光景ではなく、そこに立つ登場人物の中身まで含めた、非常に高純度な解像行為を、読者側に求めている。ともすれば行間や、含意といった暗示的な情報まで含めて、そのすべてを解像してもらうことを。

 絵や映像とは違い、受け手に光景を描かせる。
 そして、ひとりの人間の人生やら半生やらを、読者にコピーさせる。
 その架空の人物を、読者のなかで、実際に息づく者として生きさせる。
 絵画は、できあがったものが100%のかたちで呈示される。無論、見る側の造詣によって評価は変わるものだが、少なくとも、受け手によってモナリザの髪の長さが変わってしまうことはない。
 が、小説はべつだ。小説は、作者のほうで100%であったものが、いちど0%にまで溶けおち、その後、読者のほうでふたたび100%に組み立ててもらう必要がある。
 つまり、これ以上なく相関的なものなのだ。より感傷的な言い方をするならば、小説というものは、作者と読者のふたりで完成に導くものといえる。
 そう、小説とは、読者のほうも作るものなのだ。
 これを、ひとは能動性と呼ぶ。小説が受動的な娯楽ではないというのは、そういうことだ。

 それがゆえに、小説は必要といわざるをえないのだ。
 ある種の作家は、荒野から生まれうる。原初の神話は自然のなかから生まれたものであって、そこに引用はない(※イギリスの哲学者ヒューム的な世界観でいうならば、神という概念は、幼少期に両親に対して抱いていた絶対的な安心感のコンテクストであるという説明は可能だが、いずれにせよ、それは文献的な引用とはいえない)。
 だが、すべての人間がそうというわけでは、もちろんない。
 小説を解読するという訓練的な行為によって、後天的に育まれる作家の才のほうが、はるかに数が多いだろう。芸術とは模倣することだとアリストテレスも言っている。
 次世代の優れた作家は、小説を読むことによって初めて育ちうる。だからこそ、優れた小説には存在してもらわなければ困るのだ。
(もっとも、ぼくの本意は作家の成育というよりも、むしろ実社会における国語力の必要性を訴えたいという本音のほうにあるが、こうした焦点も、大きく間違っているものではない。これは脱線するので触れないが、ただ国語力を高めたいというだけなら、本を読む以外にも有用な手段はあるように見受けるからだ。

 ゆえに、残念なことに、小説は必要なものだ。もしも娯楽品でなかったとしても必要であるくらいだ。それほどまでに、文字情報を受け取って、自分のなかで正確に写像していく行為は大切だからだ。
 そして、それが楽しい行為であればあるほどいいだろう。だからこその娯楽小説だ。そういう意味で、娯楽小説は有機的な存在といえる。

 そういうわけで、小説を書くことをやめてもらっては困る。
 とくに、意味のある写像を他者に求めている層には、やめてほしくない。まったく写像する価値のないものを提供している人間以外には、やめてもらっては困るのだ。
 今後も続けてもらう。あなたの読者は少ないかもしれないが、その少ない人数が、きちんと日常において写像しているなら、それは意義がある。
 もちろん、死ぬほど小説を読んで死ぬほどAmazonにレビューを書いているにもかかわらず、ろくに物を読めていない外れ値だって世には存在しているが、まあ、点Pは動いていないよりも、動いていたほうがましといえる。動いてさえいれば、いつか正しい位置に辿り着くこともあるかもしれない。

 あなたがいくつもいくつも文字情報から写像し続けて、いくつも訓練を重ねていけば、いずれは病気で死ぬと予告されているヒロインが、じつに意外なことに物語のクライマックスで死んだときに、これは以前の写像で見たものだと――つまり独自性がなく、あまり着手する価値のない写像だということにも気がつけるかもしれない。
 あるいは、病気で死ぬと予告されているヒロインが病気で死んだときに、これはほかの病気で死ぬと予告されているヒロインが病気で死ぬ物語とはいっぷう異なって価値のある、病気で死ぬと予告されているヒロインが病気で死ぬ物語であると、そう気がつけるかもしれない。

 それらはすべて明示されておらず、ただあなたのなかでひとつの解答となる、あなただけの解釈なのである。

 最後に、細分の話をする。これはメインテーマではない。
 ここまで読んだひとが思う疑問として、「商業出版の意味とは?」という視点が生まれうると思う。それは間違っていない。小説が読まれなくなったという話を市場に絡めて話している以上、論点はそこだ。
 そしてぼくの言い分を踏まえるならば、小説を生み続けるのであれば、べつに商業出版でなくてもいいのではないかという疑問が生じうる。
 はじめにいうと、それは正解だ。商業出版とは、結果に過ぎない。市場的なコントロールを受けるだけの、経済活動の場に過ぎない。
 たしかに現状では、市場にアタックする気持ちで作られているアマチュアのインターネット小説の数は多いだろうが、これは自然と数が減っていくことだろう。なぜなら、紙の本として売る旨味が徐々に減っていくからだ。そうはいっても人気の話が存在するのであれば、おそらく環境に適応した新たなマネタイズが、いつか自然と生まれていく。
 でもそれはあなたが小説を書く理由とは離れたところに存在している。あなたがやるべきは自分がおもしろいと思う、ひとが読む価値があると思うものを一生懸命に書くというただ一点に過ぎず、その先のことは、本来関与できるものでも、しようとすべきものでもない。

 ただし、ぼくがあまねくインターネット小説を歓迎しているかというと、そうでもない。しかし、それは細分のさらに先にある細分の話だ。
 ひとが文章で暗号を記す。だれかが暗号を読み解き、内部で再生しようとする。最低でもそういうやりとりであるのならば、まあ、これ以上細かいことは言うまい、と思っている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?