[日記] 青山と舞城王太郎

 朝8時、のそのそと起床。のそのそと準備をして、青山まで赴いて人と食事をした。なにやら大層なイタリアンだった。トラットリアではなくリストランテである。ドルチェが異様に優れた店だったように思う。なにせ12種類以上のスイーツが載った皿がドンと出るので、最近行ったあらゆるイタリアンと比べても圧倒的に豪奢だ。素材の味が出ているという表現はよく聞くが、それにしても驚くほど砂糖による加工をせずに素材の味を出す、変わったドルチェだった。とはいっても甘くないわけではないので、あの量を平らげるのはぼくレベルの甘党でなければ到底無理だろうと思った。その後、人と別れて一人で渋谷まで歩き出した。フォーマルな店で食事する予定だったので今日の服装は比較的かっちりとしていた。真っ赤なスミスのシャツに民族衣装的な模様の描かれたタイ製のカーディガン、そしてグリーンのレザーコートを羽織っていた。一昨日昨日よりは肌寒いが、まだ秋晴れといえる日中だったので歩いているうちに汗をかいて嫌な気分だった。どこかで落ち着いて喫煙でもしたい気分になる。渋谷を通り越して代官山で休むつもりだったが、考え直した。コーヒーはすでに三杯飲んでいたから、しっかりとした喫茶店以外にしたほうがいい。代官山で喫煙可能な店はどこもコーヒーに優れる店だから、今のコンディションでわざわざ行く必要はない。「それなり」のところでいい。というわけで渋谷で足を止めて、カフェ人間関係に腰を落ち着けた。最近、休日の人間関係はえげつない混み方をしている印象だったが思いのほか席が空いていた。丸テーブルにパーラメントライトと灰皿を置き、ブラッドオレンジジュースを置き、最後に単行本サイズの小説を置いた。となりの席ではテンガロンハットを被った中年のおじさんがずっとスマートフォンで自分をストリーミングしていた。画面に向かってなにかを延々と語り続けていたので一般に迷惑な客だったかもしれないが、ぼくはイヤホンで音楽を聴いていたので特に実害はなかった。ぼくが画面に映らなければそれでよかった。黒いニットワンピを着ているスタイルのいい子が席を探しにきたが、ストリーミングをしているおじさんを見て顔をしかめると、どこかへ消えてしまった。かわいらしい子だった。やはり実害があったかもしれない。

 煙草を二本吸いながらぼーっと音楽を聴いた。今日聴いていたのはKO3という作曲家のPlease call meという曲だ。ぼくはkawaii future bassという音楽ジャンルが好きなので(要は女性ボーカルのエモい曲調のハウスミュージックだ)、彼の作る曲は琴線に触れる。せっかくなのでこの場を借りて宣伝したい。

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 (ちなみにだが、歌詞がすばらしい)

 煙草を吸い終わったので、本を読むことにした。舞城王太郎著・「私はあなたの瞳の林檎」。三作の短編集だ。一昨年の刊行作で、去年も読んだから、今年のこのタイミングで三度目の通読となる。ぼくは舞城王太郎氏の小説を読むとき、全力で厳しい目線で臨むようにしている。舞城王太郎氏の小説がこの世でもっともすばらしいと思っているからだ。だからこそ色眼鏡が働かないよう、常にあらを探すように読む。ぼくは舞城王太郎氏の小説は全作通読していて、彼の小説がなぜ優れているのか、学生時代からこれまで何十万字と使って説明してきた。氏の小説によって大衆文学と純文学の違いを肌で学んだようにさえ思っている。なので、今さら氏の概略を改めるつもりはない。

 改めて「私はあなたの瞳の林檎」を読んで、ひょっとしたらこれが彼のキャリアで最大の傑作かもしれないと思った。今回、どれだけ厳しく読もうと心がけても、三度目の通読でさえいっさいの瑕疵が見つからないどころか、以前は気づかなかった新しい要素を発見する羽目となってしまった。本作は、すべてが怪物級の短編で構成されている。そしてぼくはこの本に収録されている短編すべてが「理解できる」。ぼくのために書かれたのだろうか、と思うほどに、完全に理解できる。

 純文学と大衆文学の違いを説明するとき、ひとつわかりやすい指標がある。大衆文学には、個人に収束するような指向性がない。一般的だからこそ広いエンターテインメント作品(商業作)として成り立つし、人に薦めることも可能だ。反面、純文学は人に薦めることが難しいように思う。ぼくは舞城王太郎という作家の書く小説が心の底から好きだし、この世でもっとも優れた小説家であると確信もしている。とはいえ、そこに共有の必然性を感じない。なぜなら、純文学は特定の読み手を求めるからだ。べつに、舞城王太郎がわからなければそれでいい。というよりも、おそらくわからない人のほうが数としては多いだろう。だが、ぼくがわかるからそれでいい。これは個人に収束する指向性を持つ小説だ。だから純文学なのだ。ぼくがわかるからそれでいいのだ。これは他の純文学にも言えることだ。谷崎潤一郎の春琴抄が言葉にできぬほどすばらしいと思っているということなどは、あまり堂々とは言えないものだ。

 もうひとつ純文学を人に薦めづらい理由を挙げると、この小説に本質的な感銘を受けた、という自己開示には勇気がいるものだからといえる。「私はあなたの瞳の林檎」は、ぼくが考えていること・考えていたことを助ける知見やアンサーが明確に切り抜かれている。だからこそ、人に教えるのがこわいのかもしれないと思う。「ここに書かれているのがぼくの本質ですよ」とは中々言いづらいものだ。それは自作の小説を人に読ませる恥にも似る。

 「制作ってのは恥ずかしいもんだよ」 from ほにゃららサラダ

 その通りなのだ。

 人間関係を出た。電車に乗って帰ってもよかったが、まだ歩きたい気分だったのでしばらく歩くことにした。国道246を、ずっとまっすぐ進んでいく。池尻大橋の氷川神社を見て、子供の頃はあの神社をやけにこわがっていたな、と思い出したりなどする。今では、なにがおそろしかったのかも思い出せない。ぼくはいろいろなことを忘れているし、きっとこの先もいろいろなことを忘れていくのだなと思った。今日、こういうことを考えていたことさえも忘れていくのだ。ぼくがその事実に気づいたのは中学生の頃だった。自分が人一倍忘れっぽい人間だということを知ったときは、かなり嫌なものだった。だからこそ、ぼくは随筆を書き始めたのだった。舞城王太郎の短編「ほにゃららサラダ」では、作品とは没頭するものだと書かれていた。楽しい気分で、没入感を伴ってやれることが創作なのだと。それでいうのなら、ぼくの行ってきた創作行為の大半は小説ではない。ぼくにはまだまだ小説の経験が少ない。今もそれで苦しんでいる最中だ。ぼくが長くやってきて自信のある制作は、こういった日記だ。ひょっとしたら、これこそがぼくのポートフォリオなのかもしれないと思った。それはべつにだれにとって価値のあるものでもない。というよりも、大半の人は興味のないことだ。ぼくが日々なにをして、どう思ったのかということは、基本的にはぼくしか関心のない事象のはずだ。まさしく、これが個人に収束する指向性だ。だが、それでいいのだろうと思った。遥か昔は拒絶したい思いがあった気もするが、今は微妙な諦念と共に受け入れられている気がしている。そういう自己も肯定して、代替のないこの人生を信じるということが大事なのだ。どこにも証拠などないから、人は信じることしかできないのである。

 このまま家まで歩いてもいいとも思ったが、携帯の電源が残りわずかになってしまっていた。果てしない散歩は好きだが、それは音楽を伴っていることが前提だ。携帯の電源が切れたら元も子もないので、しかたなく三軒茶屋から電車に乗った。車内でタブレットを開いた。wordのアプリを起動して、自分の書いた原稿を読み返して、むずかしいパズルを解くみたいにして構成の入れ替え案を考えた。この話だけは、とぼくは思った。この話だけは、個人に収束する指向性を持つべきではないはずだ。

 おそらく、ぼくにはまだ文学は早いのだと思う。

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