[日記] ゲームとぼく

 (たぶんだけど)今年初日記。もう1月も終わりですね……

 前回の有料noteに関しては批判には有料コンテンツで返せという師匠からの教えを守ってのことです。そうするとアンチがわかりやすくお金を落としてくれるので。まあアンチがつくほど大きな存在でもないんだけども。

 でも内容は非常に薄い。なんか具体的にこの話のここがダメみたいな指摘が書いてあると思ったらごめん。書けはするけど再視聴しなきゃいけないから嫌だったんだよ

 追記するとしたら好みの部分についてかな。ぼくの好みはまったく世間一般からずれていない。実際のところぼくが褒めるものは世間でも受け入れられているものばかりだ。なのでぼくの理解ではこの図が正しい。

タイトルなし

 …………?

 ……!!?

 なんだこの図は…… これで伝わるのか?

 まあ……伝わるか。大丈夫だろ、たぶん。要はぼくの好みから漏れている世間でウケている創作はまだ浅いよって話だし、ぼくの好みはコアに位置しているから最終的には全員ここに集結すると信じているという話でもある。まあ集結しなくてもいいんだけど。

 というかぼくは世界で一番いい漫画は東京喰種とか言い出す人間だぞ。5000万部以上売れている大ヒット漫画が大好きなんだから逆張り人間なわけないでしょうが。

 生きていると色々とこだわれなくなる場面が多いんだけど、それでもやっぱり守らなきゃいけないものというのはあるなと実感する。譲れない最後の線引きがある。ぼくの場合はそれが創作にあるらしい。自分がよくないと思ったコンテンツは嘘でも褒めないようにしたい。というのもプライドや人を慮ってのことばかりではなく、ぼくのような記憶力のない人間はそういう嘘をつくと何年も経ってから自分で見返したときに「この頃のぼくはこれを面白がっていたのか~」などと平然と勘違いするからである。

 そもそも日記を書いているのだって全部忘れていくからなのだ。

 *

 弱キャラ友崎くんのアニメを観ていて、ふとゲーマーの地位って向上したものだなと思った。いいことだと思う、本当に。友崎くんの原作でも、主人公の友崎くんがプロゲーマーになろうとする展開が描かれているという。

 今ぼくがこれを書きながらもサブモニターではVtuberがやっているゲーム配信が流れている。ゲーム配信は今では数少ない景気のいい領域だ。こんなこともひと昔前では想像できなかった状態である。この数年で本当に状況が好転したと思う。

 去年1年を通してぼくが最も楽しんだコンテンツはゲームの大会の視聴だ。これは本当に面白かった。CrazyRacoonというプロゲーマーチームが主催したそのゲームの大会はYoutubeのチャンネル登録者数が3万人を超えている人ならエントリー可能で、ガチガチのプロゲーマーではなくカジュアルにゲームを楽しんでいるストリーマーがたくさん参加していた。ゲーム業界に関係ない有名人も多く参加していて、たとえば先月の大会ではアニメ呪術回戦のOPを歌っていた音楽クリエイターのEveさんや、プロダンサーの関口メンディーさんなんかも参加していた(すごくない?)。

 このCRカップという大会はAPEX LEGENDSとフォートナイトという日本でも大流行しているFPSゲームの両方で開催されていて、ぼくは特にAPEXのほうの大会を観るのが大好きだ。正直言って今世の中にあるあらゆるコンテンツで1番面白いと思っている。

 このゲーム大会視聴の面白さはぼくの趣味であるロードバイクの大会を見ているときの気持ちとほぼ同じで、eスポーツとは本質的な意味でスポーツと同じなんだなと実感する。プロスポーツ選手の大会を見ていると、なんでこんな走りができるんだろうと当たり前だが技術的に感心する。ゲームのプロの大会も同じで、なんでこんなプレイができるんだ?と感心させられる。

 才能のあるゲーマーのプレイが気軽に見られていい時代になったな~と思う。

 中学生の頃、ぼくはずーっとゲームセンターに通っていた。誇張抜きで、ずーーーーっと通っていた。

 ぼくにとって対戦ゲームは命だった。ぼくはスクールバッグにパーカーを詰め込んで、朝行ってきますと家を出ると玄関先で制服のブレザーを脱いでパーカーに替えて、駅前のマックで本を読んで過ごした。二、三時間本を読んで十時前になると電車に乗り、渋谷のタイトーステーションというゲームセンターが開店すると同時に入店した。そこで延々とゲームの練習をして過ごした。ぼくの小遣いはほぼすべてゲームに消えていた。

 ぼくが熱中していたゲームは2on2、つまり2体2のシステムなのでプレイするときは隣に仲間を置く必要がある。今ではオンライン機能があるから一人でも気軽にプレイできるが、当時はそうではなかった。一人でゲーセンにいる場合、知らない人と組む必要があったのだ。平日の朝十時はあまり人がいなくて基本的にはCPUを相手にスパーリングをしていたが、たまに大学生やサボリのリーマンもいた。そのときは対戦が起きる。当時十四歳だったぼくは金髪の煙草を吸っている兄ちゃんにお願いしていっしょにゲームをさせてもらっていた。

 これも今ではオンライン機能があるため解消されている問題だが、当時はその場にいる人としかプレイできなかったから実力の淘汰が起きた。つまり何が起こるかというと、弱いといっしょにゲームしてもらえないという事態に陥るのだ。一度プレイして弱いとバレると、誰も隣に座ってはくれなくなる。ゲームをしないと強くなれないのに、強くないとゲームができないというジレンマが生じるのだ。勇気をもって話かけてプレイしてもらったのに、弱いから誰もいっしょにやってくれなくなって非常に物悲しい気分になったのを覚えている。そうすると辛さをバネにして練習するしかない。誰もいない時間を見計らってCPUを相手に練習し、人がいるときは後ろで観戦して学び、少しずつ強くなるしかなかった。当然、勉強している暇も学校に行っている時間もなかった。

 一人でゲームセンターでプレイすることを野良と呼ぶ。ぼくの野良生活は学校でゲーセン仲間を見つけるまで半年くらい続いた。ぼくは今でもあのときのことをよく覚えている。マックで百円のマックシェイクを買って三時間ほど本を読み、ゲーセンが開いたら猛練習し、疲れたらマックに戻って本を読んだ。ずっとそればかりしていた。三つ子の魂百まで。今ぼくはプロ作家で、そしてゲームが趣味だ。

 いつなんどきもゲームのことを考えていた。そしてごく一般的な欲求として大会に出ようとした。そのために毎日練習し、そして壁にぶち当たった。

 当時のぼくはまあ、けっこう強かった。そりゃそうだ。特にセンスがあるわけではなかったが、ゲームに注ぐ時間がそこらの人とは違った。なんせ中学生なのにほぼ学校に行かずにゲームしていたのである。中学校は義務教育だから行かなくても卒業できると教えてくれたネットの悪い兄ちゃんには感謝している。

 だが強いとはいっても偏差値でいえば60ちょいくらいのものだ。偏差値70ある強者には全然勝てなかった。どれだけがんばってもまったく勝てないのだ。ぼくに見えない弾が見えて、ぼくに避けられない弾が避けられる人がいる。どれだけがんばって練習しても超えられない壁があり、それを一般に才能と呼ぶ。結局、ぼくはゲームで功績を残すことはできなかった。そして高校生になり、今度は学校に通わないと卒業できないことがわかったので通うようになった。

 *

 何年か前、知り合いの年上の人がゲームのプロシーンのことをバカにした発言をしていた。ぼくはそれを怒り、ゲームの大会で結果を残すこととスポーツの大会で結果を残すことに大きな違いはないと言ったが信じてもらえなかった。その人は真剣に対戦ゲームをやったことがない人だった。やったことがないとわからないのは仕方がないかもしれないが、歯がゆいものがあった。

 ゲームの世界には才能がある。そして才能のある人間が毎日練習をして初めて辿りつける領域というものもある。しかし一部の才能人がどれだけ努力しようとも、それで食っていけるようになることは長らくなかった。おそらくプロで最も有名な梅原大吾さんも著作の中で、いくらゲームが好きでも生活できないからプロ雀士に転向しようとした時期について書かれている(なお閑話休題的になるが、このときやはり麻雀の世界から対戦ゲームに戻ろうと決めた理由はかなり感動的なのでぜひ読んでみてほしい)。

 どういう世界であろうと、才能のある人が生活のために別のことをやらなきゃいけない場面を見るのは辛いものだ。だからこそ一部の才能人が配信サイトで広告収入を得て生活ができるようになったとことと、ゲームの大会に何万人もの人が同時接続して視聴するようになった現状が非常に感慨深く感じられる。

 数年前にプロシーンをバカにしていた知人も、今はゲームの大会を楽しんで視聴している。そしてぼくも「なんで今の弾見えんの~!?」と言いながら視聴している。ぼくは自分にできないことができる人を尊敬するのだ。

 適当に書いていたら有料記事よりもずっと長くなってしまった。なんでだ……

 1年の行いは1月の行いで決まるような気がそれとなくするが、それでいうとぼくの2021年は既に終わっているように思える。まあ、あと数日で誕生日なのでそれを迎えたら本気出します。本当です。たぶん。

 きっとな。

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