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高校における新教科「情報」ができたころのこと

大岩 元(慶應義塾大学)

1999 年3 月29 日に「学校教育法施行規則の一部を改正する省令」が出されて,「高等学校学習指導要領の全部の改定」の中で,高等学校において新教科「情報」が「情報A」,「情報B」,「情報C」それぞれ2 単位のどれか1科目以上の必修教科として設置された.戦後,新たに生まれた教科として小学校低学年教科「生活科」があるが,これは理科と社会が統合されたものであり,また,高校教科「社会科」が「地理歴史科」と「公民科」に分離されて新教科が生まれた例があるが,戦後の日本の教育で初めて,それまでにない教科が設置されたのである.その前後の状況については,田中規久雄「教科『情報』新設に見る中等情報教育政策の一断面」[1]に詳細に記述されている.本稿では,田中論文を参照しながら,筆者の個人的な見解を述べることにする.

1989 年に施行された学習指導要領

 1989 年高等学校学習指導要領は,1987 年に出された「臨時教育審議会」の答申における3 つの原則「個性重視」,「生涯学習体系への移行」,「国際化・情報化など変化への対応」を受けて,作成されている.そこにおける情報教育は,以下に示すように各教科・科目の学術規範(discipline)に従属する教育手段,教育内容として挙げられている.

 この他,美術I,世界史A,地理B,現代社会にも,情報教育に関連する言及がある.

 表-1 に示された内容とその他の科目における情報の扱いを見ると,各教科の中で行おうとしているが,現在小学校におけるプログラミング教育もそれと同じようなことを行おうとしている.そして当時はプログラミングは数学に,ハードウェアとしてのコンピュータは物理で扱うことになっていた.

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表-1 1989 年施行の学習指導要領における情報教育

 活用について「家庭科」の中に「情報についての基本的事項を理解させ,コンピュータの基本的な操作を中心とした指導を行うよう配慮すること」という言及があることは,2020 年からの指導要領において中学校の「技術・家庭」の中でプログラミング教育が始まることにつながっている.

 しかし,教えているのは数学,物理,家庭科の教師であってコンピュータ科学(Computer Science 略称 CS) を学んでいるわけではなく,当然のことながら多くの先進国で目指している情報教育を期待することは難しい.

 どこの国でも情報教育で一番問題になるのは教師教育である.オーストラリアでは,コンピュータ科学と教育学を大学で修得した情報教師の育成をしている.そのようなことを考えないで情報化社会を築こうとして,日本の社会は大きく社会の情報化が遅れたのであるが,そのことに気づいていない.ほとんどすべての情報処理はコンピュータがない時代と同じように紙の上のデータしか使おうとせず,電子データとしての利用を考えていない.用紙をWeb サイトからダウンロードさせて,そこに記入した紙の書類を提出させることが一般化している.この状況を,今は政府が率先して変えようと動き出している.

マルチメディアを活用した21 世紀の高等教育の在り方に関する懇談会

 1996 年10 月18 日,第1 回「情報化の進展に対応した初等中等教育における情報教育の推進等に関する調査研究協力者会議」(以下,協力者会議と略す)が開催され,「情報」を独立教科にするのかなどが議論された.その一環として開かれた「マルチメディアを活用した21 世紀の高等教育の在り方に関する懇談会」には筆者も委員の一人として参加した.この会議の主査は東大医学部教授の開原成允氏,副主査は放送教育開発センター所長の坂元 昴氏で,情報分野の専門家としてNTT 取締役・通信網総合研究所長の青木利晴氏,学術情報センター教授の浅野正一郎氏,慶應義塾大学環境情報学部教授の大岩 元が参加している[2].この会議で印象に残っているのは,ジャーナリストの野中ともよ氏が「ここで行われている議論は,(今の時代に)飛脚の脚をどうやって強くするかというものである」と批判したことである.コンピュータの導入で社会がどのように変わるのか,それに伴って教育はどのように変わるべきなのかといった本質的な議論が欠如しており,紙の上の情報処理から電子化された情報が大きな意味を持つことになる社会について議論がなされないことへの批判をされたのだと思う.

 その後,この協力者会議は教科「情報」の設立に向けて上記懇談会のメンバ東京工業大学教育工学開発センター長の清水康敬氏を主査に活動を行い,「体系的な情報教育の実施に向けて(1997 年10 月3 日)」(情報化の進展に対応した初等中等教育における情報教育の推進等に関する調査研究協力者会議「第1 次報告」[3]によって教科「情報」への道筋をつけたのである.教科「情報」に対しては,数学,物理なども影響力を持とうとしたと思われるが,清水氏はこれらを排除して教育工学主体の,利用者教育としての「情報」設立の方向が決まったのである.この報告書の作成協力者の中には,CSの専門家は入っていない.この結果,情報教育の基礎学問としてのコンピュータ科学は専門高校で学ばれるべき内容とされ,普通高校の内容としては縮小を余儀なくされたのである.

 こうした検討の結果として1999 年に指導要領が策定され,高校の独立必修教科「情報」が成立し,情報A,B,C の3 科目から2 単位選択必修という最初の制度が実施されるようになったのである.コンピュータ科学は情報B の中にとりあげられている.

その目標は
「コンピュータにおける情報の表わし方や処理の仕組み,情報社会を支える情報技術の役割や影響を理解させ,問題解決においてコンピュータを効果的に活用するための科学的な考え方や方法を習得させる」
となっているが,その内容構成は指導要領解説[4]によると,

 1.問題解決とコンピュータの活用
 2.コンピュータの仕組みと働き
 3.問題のモデル化とコンピュータを活用した解決
 4.情報社会を支える情報技術

であり,コンピュータ科学を扱う2.では,「コンピュータの効果的活用ができる判断材料となることをねらいとして,技術的,数理的な深入りはせずに,3.や4.に直接役立つ基本的な見方,考え方を認識させる程度とする」となっており,「教養・知識」の扱いとなっている.3.の「問題のモデル化」は数式によるモデル化だけであって,コンピュータ科学におけるモデル化はまったく入っていない.

ユネスコの提案する情報教育

 2002 年にユネスコはIFIP(International Federation for Information Processing)の協力のもとに情報教育の報告書"Information and Communication Technology in Education : A Curriculum for Schools and Programme of Teacher Development" を 発表している[5].その内容は,表-2 の通りである.

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表-2 ユネスコ報告書の内容[5]

 日本の高校普通教科ではコンピュータ科学が「情報B」の一部に「教養・知識」に限定されて含まれているのにすぎないが,ユネスコの報告書ではコンピュータ科学の主要部である「ICT 自体の特化」が,専門家とともに高等教育進学者のためのものでもあるという文に注目する必要がある.米国ではすでに,プログラミング経験がないことは高等教育卒業生でないことを意味するようだ.

 IV ICT 自体への特化の内容は,日常の問題をアルゴリズム形式で解くことができるようになることである.現在世界中でプログラミング教育の実体として議論されている Computational Thinking そのものと言ってよい.そして具体的には3 種類のモジュールが提案されている(表-3).

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表-3 ユネスコ報告書「IV ICT 自体への特化 」の内容[5]

 ここで驚かされるのは,産業界に入る一般人もSP やGS を学んでいることである.日本の専門高校ではこうしたことを教育していない.VS の作業自体を教えているだけである.商業高校の教師の指導をしたことがあるが,COBOL の書き方を知っているだけでアルゴリズムの概念も,それを作り出す方法も知らなかった.

 大学進学者がこの内容を学んでいることも重要である.ユネスコレポートは途上国向けに書かれており,欧米では高等教育修了者にこのレベルの情報教育が行われていることを示している.日本では,多くの(特に文系の)大学卒業者がIT を自分で利用することがあまりなく,ソフトウェアの利用もおぼつかないことは嘆かわしい.

 特に注目すべきは,SP1 プログラミング入門(Introduction to Programming) である.その内容は表-4 の通りである.

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表-4 ユネスコ報告書「SP1 プログラミング入門」の内容[5]

 1970 年に,日本でも情報関連学科が初めて京大,阪大,東工大,山梨大,電気通信大,金沢工大に設置されたが,この時期は日本の高度経済成長が本格化した時期であり,情報産業が勃興した時期でもある.旺盛なプログラマ需要を大学に求めるのは無理で,情報産業は素質のありそうな大学卒業生にプログラミング教育を1,2 カ月行って現場に投入することが始まった.コンピュータは従来の機器にくらべて超強力な性能を持っていたので,入門教育だけで十分にビジネスが成立したため,以来50 年間にわたり,プログラミング入門教育が続いてきた.このような日本独自のIT 技術者育成は,進化をとげて現場で使われるプログラムをやさしいものから順番に打ちこんで動かすことで,未経験者もプログラムが書けるようになる「写経プログラミング教育」が生まれた[6].この結果,ベトナムにアウトソーシングのための開発拠点を設けると,難しい仕事をするのはベトナム人で日本人技術者はやさしい仕事しかできない状況が生まれているようである.CS の存在を知らない日本のIT 技術者なら,そうなることは当然の結果であるが,いつまでこの状況を続けられるのかが心配である.

今後の情報教育

 2015 年頃から,先進国で小学生からのプログラミング教育が始まった.これは,IT によって社会構造が急速に変わり,旧来の教育では自分の子弟が職を得ることができなくなると心配した親たちが,政府にプログラミング教育を学校で行うことを求めたためであるらしい.日本も安倍政権が経済活性化政策の一環として小学校からのプログラミング教育を始めることにした.10年後にはプログラミング能力は読み書き算盤と並ぶ基本的な市民のリテラシーとなるであろう.

 プログラミング入門の定番であるLOGO は,幼児でもきちんと教えれば修得できることが知られている(図-1).手ではとても描く気になれない複雑な花の絵は,プログラム機能を利用すれば幼児でも描けるのである.しかし,修得できない大学生は,この幼児の作品を見て驚く.幼児に行えば可能なことが,大学生になってからでは非常に困難であることは識字教育としてプログラミング教育を行う必要性を示している.

図1

図 -1 Marta T. Szabo氏の指導した幼児のLOGO教育結果

 英国のようにComputing という新教科を設けることは不可能なので,日本は各教科の中で行うことにした.90 年代までの高校教科「情報」が成立する以前の高校における情報教育と同じ状況であるが,始まるだけで良しとしていかねばならないであろう.

 どこの国でも情報教育で一番問題になるのは教師教育である.オーストラリアのように,情報学と教育学を修得した情報教師の育成を考える必要がある.世界標準の情報教育を実現するには,次の学習指導要領の改定に向けて緻密に教育計画を策定する必要があるが,そのためには30 年先の社会を見越した長期ビジョンを作る必要があるだろう.

参考文献
1) 田中規久雄:教科「情報」新設に見る中等情報教育政策の一断面,大阪教育法研究会,大阪東法研ニュース 第186 号(Oct. 1999).
2) マルチメディアを活用した21 世紀の高等教育の在り方に関する懇談会協力者,http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/koutou/001/toushin/960701k.htm
3) 体系的な情報教育の実施に向けて(1997 年10 月3 日),http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/shotou/002/toushin/971001.htm#02
4) 文部省「高等学校指導要領解説 情報編」(2000 年3 月30 日)
5) Information and Communication Technology in Education : A Curriculum for Schools and Programme of Teacher Development,
https://unesdoc.unesco.org/ark:/48223/pf0000129538
6) 喜多 一,岡本雅子,藤岡健史,吉川直人:写経型学習によるC 言語プログラミングワークブック,共立出版 (2012).

(「情報処理」2020年3月号掲載)

■大岩 元(正会員) ohiwahajime@gmail.com
 1965 年東大理学部物理学科卒業.1971 年理学博士.東大理学部助手,1978 年豊橋技術科学大学講師,同大助教授,同大教授,1992 年慶應義塾大学環境情報学部教授.2008 年同大名誉教授.帝京平成大学現代ライフ学部教授,相愛大学音楽学部音楽マネジメント学科教授を経て 2017年(一社)協創型情報空間研究所を設立,代表理事に就任.