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僕の価値観の変化と感謝を込めて。 〜爻ノ篇〜

 こんにちは、2020年も終わりに近づき大掃除の時期になりましたが、全然大掃除に取り掛かれていない塩田一平です。そういや、最近本当に寒いですね。コロナもここにきて猛威を振るってきています。どうか体調管理には気を付けてくださいね。

早速ですが、前回に引き続き、僕が歩んできた22年間で特に自分の価値観が変化したエピソード、そして感謝について述べていきたいと思います。


前回のnoteはコチラです。

このnoteの中で僕の人生の転機を5つ紹介しました。もう一度ここに書いておきます。

仲の良い友達との喧嘩(小学生時代)
駅伝の経験を通して克己(中学生時代)
仲の良い友達が突然学校に来なくなる(高校時代)
受験失敗による浪人生活(高校卒業〜大学入学)
大好きな祖父との別れ(大学時代)

漸ノ篇では、高校時代までについて書かせていただきました。今回のnoteでは残り2つについて書いていきたいと思います。ちょっと重くなってしまうかもしれませんが、この出来事があってこそ今の自分が形成されているのでよかったら最後まで読んでいただけると幸いです。

まずは、受験失敗による浪人生活(高校卒業〜大学入学)について書かせていただきますが、現役時代の大学受験を控えていた僕はある大きな決断をしたのでまずはこの点からお伝えしたいと思います。

思い切って文転

 私が通っていた中高一貫校は、高校二年生の時に文理選択によってクラスが振り分けられる仕組みになっていました。私はそこで理系を選択していました。つまり、現役時代は理系でセンター試験を受けていました。ただ、大学受験を控えた高校三年生の夏に、理系だった私は数Ⅲ化学生物を一通り学び終えたのちに文転しました。
 文転した理由は2つあります。1つ目は、理系で大学に入学した後の将来自分の姿が想像できなかったからです。高校一年生の時に担任の先生と文理選択のことで面談をしていた時に、先生から

「一平は将来何になりたいんや」

と言われました。当時の僕は何か人のためになる/役立つことがしたいと思い、なぜか薬剤師になりたいと言いました。その時の自分は本気でそうなりたいとは思っておらず、なることが出来ればいいな程度くらいにしか思っていませんでした。しかし、いざ自分が理系になって時を過ごしていくうちに薬剤師になりたいという欲が無くなってしまいました。確かに進路の選択肢が多いけれど、このまま理系にいても何も自分から生み出せないのではないか?また、なりたいこと/やりたいことが見つからないと考えるようになりました。

 そこで2つ目の理由です。それは、経営や経済に興味を持ったからです。これは、父が地元でラーメン店を営んでいることが根底にあります。

私は将来起業をしたいとは今のところ考えてはいません。ですが、経営を実際に行っている父の背中を見て僕も興味を持つようになりました。また、数学が当時好きだったので経済にも応用できるのではないか?という安易な理由で経済にも少し興味を持つようになりました。

文転したときは、色んな人から反対意見をもらいましたがこの選択は今思い返すと間違ってなかったと強く思います。最近、よく「選択を正解にできるようになりなさい」と言われることが多くいので、選択を正解にできる人間に少しでもなれるように頑張っていきたいと思います。

受験失敗

 文転したとはいえ、センター試験は理系科目で受験することが可能だったため、高校三年時は理系科目でセンター試験に臨みました。

そして、センター試験の自己採点終わりに僕は顔が見る見るうちに白くなった記憶があります。予想以上に低い点数をたたき出してしまったのです。

私立受験は一つだけ受験しましたが、不合格でした。
そして、国公立大学も前期後期受験しましたが、不合格でした。

結果的に、現役時代の僕はどこにも合格することが出来なかったのです。

そんな僕は、何としてでも大学に行きたかったので親に無理を承知で浪人させてほしいとお願いしたところ、何とか条件付きで広島で寮生活をしながら浪人することを許可してくれました。

浪人生活の始まり

忘れもしない2017年3月27日。

僕は約15年間お世話になった松山を離れました。
父親とは松山観光港で別れ、広島に母親と向かいました。

そして、寮(約四畳)で母親と荷物の整理をした後、母を広島駅まで送ってお別れの時

母には、高校卒業まで勉強しなさいと耳にタコができるくらい言われていました。そんな母が、別れ際に頑張りなさいよ、と優しく言われた瞬間、元気よく返事しましたがその時は今にも泣きそうでした。

そして母親が見えなくなって、場所を移し、いざ一人になったとき号泣してしまいました。

これから一年間親元を離れて孤独な上での受験勉強。初めての広島で一人暮らし。寮の部屋は4畳という狭い空間。正直不安しかありませんでした。

始まりは苦しい浪人生活、でも思い返してみると、とても充実していた浪人生活がこの日から始まりました。

家族や寮の仲間、色んな人の支え

 前述したように、僕は親に条件付きで浪人させてくれることを許可してくれました。その条件は、国公立大学に進学することでした。

自分が進学したかった大学は経営学部のある国立大学だったので、この条件を満たすために、合格したい一心で浪人生活中はほぼ1日中勉強することが多かったです。

この一年間は、しんどかったことの方が多かったです。でも、考え方や価値観が一変したと断言できるくらい自分にとってターニングポイントになった1年だったと思います。

そんな時に心の支えになってくれたのが、両親はもちろん、祖父、同じ屋根の下で過ごしている寮の仲間たち、予備校で出会った友人や先生、そして寮長・寮母の存在でした。

両親は、夏と冬にチューターを交えての面談が何度かあったのでその際に会うことが出来ました。ほぼ毎日連絡は取っていたのですが、やっぱり久しぶりに直接会うと何かこみあげてくるものがありました。

何としても第一志望大学に受かって喜ばせたいなあという気持ちが倍増しました。

そして、祖父は浪人中に一度も会うことはできませんでしたが、僕のことをとても心配してくれて、電話などで常にエールを送ってくれました。というのも、祖父は僕が子供の頃からずっとかわいがってくれました。

長期休暇には必ず祖父母のもとに帰省するくらいでしたからね。

他にも、予備校の先生には大変お世話になりました。僕は、毎日授業を一番前で受けていたので先生に当てられたり覚えていただけることも多かったです。

なぜ一番前で授業を受けていたのか?

これは、分からないことがあったときにすぐに聞けるくらいの勢いで色んな知識を吸収したいと思っていたからです。いやいや浪人したわけではなく、自分で浪人する道を選んだし、高校までの僕はわからないことをほったらかしにする性格でしたが、今回の場合はそういうわけにはいきません。

だから、先生にやった方がいいと言われたことは実践し、やれることは全てやろうと思って臨んでいました。

そんなこんなで家族からはエールを常にもらいつつ、寮の仲間や予備校で出会った友人と切磋琢磨しながら、センター試験当日を迎えました。

2度目の受験失敗

センター試験の後、すぐに私立大学の受験シーズンになりました。僕は私立に行く気はサラサラ無かったのですが、もしものことを考慮していくつか受けることにしました。

しかし、全落ち。センター利用もダメでした。
というわけで、国公立試験に滑り止めを持たずに挑んだというわけです。心が折れかけていましたが、国公立に受かるためにここまで1年間やれることはやってきたので自信だけは強く持っていました。



そして、国公立の合格発表日。



結果は、不合格でした。この三文字を見た瞬間頭の中が真っ白になりました。

この日、退寮日が重なっていたので、親が広島まで迎えに来てくれていたのですが、最悪な結果を見せてしまうことになってしまいました。

僕はその日、船で両親と松山に帰っていたのですが船ではずっと悔しくて号泣していました。祖父からも電話が入り、「どうだった?」と聞かれるも、「落ちた」としか言えない自分が情けなくて仕方ありませんでした。

しかも、この時点でまだ大学からの合格通知をもらっていなかったので、将来への不安の波が一気に押し寄せてきました。

この経験こそが、人生で一番の挫折でした。

ただ、国公立大学の後期試験(合否結果は3月22日に公開)は残っていたのでそれに向けて最後まで戦い抜こうと思い臨みました。

近畿大学の後期の合格発表が確か3月20日だったのですが、ここで合格をもらうまで覇気を失っていて、食ものどを通らない。それくらいしんどかった期間でした。

ただ、ご縁があって近畿大学から合格通知を頂きました。倍率50倍をくぐり抜けたので尚更嬉しかったです。

この時、僕の母親は泣いて喜んでくれました。それまで、どこにも合格通知をもらっておらず、僕がしんどい思いをしているのをそばでずっと見続けてきたはずなので…。

結果的に、後期試験もダメだったので、当初の親との約束とは違っていますが、近畿大学に進学することが決まりました。

そこで、母校へ報告に行きました。その際に言われた英語の先生からの言葉が今でも印象に残っています。

今の自分が嫌なら、行った大学で1番になれ。行って良かったと思える大学生活を送ってこい。

私立大学って、ご存知の通り学費がとても高いです。だから、親にはまた大学生活でも負担を大きくすることになってしまいました。そのため、少しでも親への負担を減らしてあげられるように大学生のうちにできることはなんでもやろうと決意した瞬間でもありました。

ちなみに、今の大学生活の中でいろんな経験をさせてもらっている中でいくつか親に喜んでもらえるような結果を出すことはできているのかもしれませんが、これを僕は罪滅ぼしの一環であり、恩返しだとは思っていません。

恩返し社会人になってからすることだと自分の中で決めているからです。

そんなこんなで、大学に入ってからはもっとまじめになろうと誓った2018年三月でした。

大好きな祖父との別れ

 大学生になって、そこそこ勉強も頑張り二回生になろうとしていた2019年の2月ごろ母から突然一本の電話が。

そこで伝えられたのは衝撃の事実でした。

おじいちゃん、肺がんだったみたい。それもステージⅣ

またもや頭が真っ白になりました。涙が止まりませんでした。

それもそのはず、この年のお正月には祖父母の家に帰省しており、その時には祖父は元気で、痛いそぶりを見せることなく楽しい時間を過ごしていたからです。

ステージⅣは末期癌ともいわれており、癌が初めにできた原発巣を超えて他の臓器へ転移している状態を指すみたいです。祖父に残された余命は持っても約半年くらいだと言われました。

これを聞いてじっとしていられなかった僕は、3月に2週間くらい祖父の元へ帰りました。会ったときはいつもと変わらない祖父でした。

帰省中、1日使って祖父と2人で車で移動する日がありました。その時には祖父が運転してくれたのですが、ショッピングモールに連れていってもらった際、「あんまり動けんから一平1人で買っておいで」と言われたときは泣きそうになりました。

祖父がこんなにも弱音吐いてるところを見たことがなかったからです。

そして、僕は大阪に戻り普段通り大学に通っていた(そういやこの時はコロナによって生活が狂わされるなんて思ってもなかった)わけですが、心配でたまらなかったので月に一度は祖父の元へ行くようにしていました。

6月に帰った際、祖父はもう病院で入院しており、歩くのが精一杯という感じでした。また、ちゃんとご飯も食べることができず、本当に苦しそうでした。

ただ、僕が帰った時には外泊許可が降りたので久しぶりに祖父と家で過ごす時間ができました。

久しぶりに祖父と2人で話す時間が取れたので色々話していたのですが、祖父から飛んできた質問は

大学ちゃんと行ってるか?頑張ってるか?

でした。よっぽど僕のことが心配だったんでしょうね笑

実際ちゃんと大学行ってるし、頑張ってるよ!と伝えたところ祖父はにっこりしてくれました。この時が祖父とちゃんと話した最期の時でした。



7月上旬。


母からまたもや一本の電話。



おじいちゃんがそろそろ危ない。
早く帰ってきて。一平のこと待ってるよ。

僕はすぐさま祖父の元へ帰りました。

僕が病室の扉を開けた時、父以外の人は全ていました。

そこで、ただいま!と元気よく言ったところ祖父はこちらを向いてくれましたがあまり意識ははっきりしていない感じでした。けど、ずっと一緒にいてあげようと思い昼も夜もずっと祖父の元にいるようにしました。

僕にできることはこれくらいしかありませんでした。

数日後、松山で仕事をしていた父が祖父の元へ来てくれました。そして、父が来てから数時間後、祖父は息を引き取りました。

祖父は、父が来るまで癌に負けずに頑張ってたことが何よりもすごいなと思い、最後まで闘い抜いた祖父は僕の誇りです。

それと同時に、赤ちゃんの時からたくさん愛を注いでくれて、いろんなところに連れていってくれて、一緒に甲子園見て...など、祖父との楽しい思い出が一気にフラッシュバックしてきました。

あんまり人の前で泣きたくなかったのですが、この時ばかりは大泣きでしたね笑

立ち直るまでに相当な時間がかかっていたのを今でも覚えています。けど、祖父がいなかったら今の僕は成り立っていないと思います。それくらい祖父には感謝の気持ちでいっぱいです。

僕が大学でちゃんとやってるか心配してくれていた祖父に、今は自信を持って

じいちゃん、俺は何とか元気にやってます。明らかに大学1、2年の頃よりは成長したはずだと思ってます。これからももっと圧倒的成長遂げるし、もう心配させないから、安心してね。

と言えます。じいちゃんは今寝てるから聞こえてないけどね笑

それを機に、今自分を応援してくれている人には全力で応えて、他人に影響を与えられるような人になりたいなと思うようになりました。

今の時点でそんな人にはなれていないと思うけど、少しでも自分の理想の姿に近づけるように日々精進していきたいと思っています。


おわりに

長いこと書いてしまいました。ここまで読んだ人いるのかな?笑

まだまだ書きたいことあるんですけど止まらなくなってしまいそうなのでここらへんで止めておきます。ちなみに、今僕が所属しているゼミの面接で「もし一つ願いが叶うなら何を願いますか?」と聞かれたときに「おじいちゃんに会いたいです」と答えて今noteで書いたようなことを話したところ、ゼミの先輩を一人泣かせてしまいました...。僕も泣きそうでしたけどね笑

次回は、2020年に書く最後のnote。

合同ゼミのことについて書きたいと思います。

僕自身の人生の転機について、2回にわたってnoteで書かせていただきました。最後まで読んで下さった方、本当にありがとうございました。

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