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抜本的改革は傲慢か?日本が衰退した理由が分かった気がする

みなさん、こんにちは。

わたしはとある日本企業のサラリーマンです。所属する部署で、2年前まで管理職に就いていましたが、メンタル不全に陥り、管理職を降りました。

気力と体力が回復したら、また管理職に復帰してバリバリと仕事に励もうと志してきましたが、最近自分が就いていた仕事を第三者視点で見ているうちに、「なんて非生産的で、非効率な仕事をしていた、もしくはやらされていたのだろう」と考えるようになりました。

果たして自分の仕事のどのくらいに意味があるのか、もしくは自分の働き方が効率的なのか、という視点で日々考え、本を読んで勉強するようになりました。

まだまだ勉強中ですが、自分の頭を整理する意味も込めて、noteを使ってアウトプットしていきたいと考え、この記事を書いています。

今日は、ある本の一説に書かれた「理性でゼロから社会を構築する傲慢」という言葉をピックアップしました。

「ゼロから社会を構築する」と聞くと、「古い固定概念を破壊する」、とか
「ゼロベースで考える」、とか、なんとなく良さそうなイメージを感じていました。自分の会社でも「昔からやっている」という理由で引継ぎされてきた業務が山ほどあり、当初は何も考えず無心でやっていた業務が「これってなんでやっているんだろう」と疑問をもつようになったものがいくつもあります。そして社内で「抜本的改革を訴える」上司が出てきたら、なんとなくその人に期待してしまっていました。

歴史に残る抜本的改革の失敗の数々

抜本的改革とは、既存の社会システムを根底から変革しようとする試みです。しかし、そのような改革は、歴史的に見てもしばしば失敗に終わってしまっているようです。たとえば、フランス革命は、自由・平等・博愛の理想を実現するために、社会を抜本的に変えようとしました。しかし、その結果、政治は不安定化し、社会は大混乱に陥りました。さらに、ロペスピエールによる恐怖政治やナポレオンによる侵略など、「自由・平等・博愛の精神」とは正反対の結果をもたらしました。
ロシア革命や中国の文化大革命、カンボジアのポルポト派による革命なども、社会を抜本的に変えようとした結果、悲惨な結果をもたらしました。
その理由は、「社会が複雑なものであるのに対して 人間の理性には限界があるから。」といいます。

社会が複雑なものであるのに対して 人間の理性には限界がある

「人間は社会というものを十分に理解していない。社会だけではなく1人の人間についてすら 複雑で 精妙なのでよくわかってるとは言えない。
よくわかってないものを抜本的に改革したところでそれが成功するはずがない。要するに人間の理性というものが不完全である。」というわけです。
この考えは私には非常にしっくりきました。たしかに私も自分自身すら理解できているとは言えない。。。

現代日本の衰退の原因は構造改革?

現代の日本でも 1990年代 や 2000年代、 政治や経済、行政から教育に至るまで 構造改革という 名のもとに様々な改革が行われました。
「日本を抜本的に変えないといけない」と叫ぶ改革派の政治家 を我々国民は支持してきました。 平成は 構造改革の時代だったと言えそうです。
 しかし その結果 今の日本はどうなったでしょうか?
衰退の一途をたどっただけです。 平成の時代に行われた一連の構造改革のうちで成功したものが 一つでもあったのでしょうか。
私が読んだ本には「日本が衰退したのは 抜本的改革を行ったからではありません 。その反対に抜本的改革をやりまくったから なのです。」と書かれていました。私には衝撃的な内容で、すぐには理解できませんでした。

改革という言葉の魔力


本を読んでからしばらく経ち、自分の中で少しずつ咀嚼できるようになってきました。改革という言葉にはなにか魔力がある気がします。
現状に不満を持ち、世の中を大きく変えてくれる「改革」という言葉の響きにのみ惹かれ、政策の内容をよく理解しないまま「何となく生活が良くなる」と思い支持し、改革の結果として、社会や自分たちの生活がどう移り変わったのか理解も後追いもしないまま、また新しい改革論者を探す癖が我々にはないでしょうか?
では、どうすればいいのでしょうか?本にはその解決策も提示されていますので、次回の記事で取り上げたいと思います。

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