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vol.3 障害の有無を“ちゃんと省く”事の大切さ

しばらく「社会的問題作!」みたいな謳いの映画は観ない方がいいな、と思っている私なのですが、所謂「病気や障害があることで、笑われたりバカにされたりする描写」がキッツイのよなあ。

私にはそこに込められた(であろう)メッセージ、もう自分の生活においてはクリアできてる。だから改めて目の当たりにすると

「世の中まだ “障害者には優しくしよう” みたいなメッセージを発信してるの?」

「え?私もしかして広い世界で生きているつもりが、実際は狭い世界で生きてる??」

ってぐるぐる考えてしまう。精神衛生的に良くないものは観ない方がいい。逃げかもしれないけど。

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この前職場の上司に

「ユミヲちゃんが今まで観た障害を持っている人を取り扱う映画で "これは良かった!”という作品って何かある?」

と言われて、その時ぱっと思い浮かんだのは

野島伸司さん脚本、1995年のTBSドラマ「未成年」でした。

物語の詳細はWikipediaを観て頂くとして、他のどんなドラマよりも共感できた。

あと、もうひとつ。信頼している女性監督がいるので紹介したい。

野本梢監督。以前わたしが「シネマ健康会」という独立プロダクション系映画のスタッフをやっていた頃に知り合った、才能ある監督さんです。

4年前くらいだったかな。この「わたしが発芽する日」をテアトル新宿へ観に行って、あまりにも自分にリンクし過ぎて、大号泣した。自分にリンクしているだけではなく、主人公の妹に “障害がある” という説明台詞や説明描写が、ちゃんと省かれていた。

「ちゃんと省く」なんて説明はおかしいのかもしれない。でも、私はそう思った。それがこの映画の、最も素晴らしいところなのかもしれない。

普段は映画に “非日常” を求めているのに、そこにあったのは “私の日常に寄り添う空気” だった。

現在、U-NEXT会員の人は本編まるっと観られるようです。

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極論かもしれないが、障害の有無なんてものは、他人にとっては正直「どうでもいい事」なのかもしれない。ケースバイケースだけど「どうでもいい事」というフェーズまで到達してくれたらいい。

病院で既往歴を伝えるように、飲食店で食べられないものを事前に伝えるように、当事者やそれをサポートする人たちが「必要な時に示すもの」として、捉えてくれたらいいのに、と思っている。

人によっては「○○障害があります」というと、妙に構えちゃう人もいると思う。私は自分のライフサイクルを説明するのにどうしても弟のきよはるとの暮らしは省くことが出来ないため「最小限の説明」として

「知的障害がある弟がおりましてですね…」

と言わざるを得ないのですが、どうしてもそこで “家族のサポートをしている優しいお姉さん” みたいなフィルターが1枚かかってしまう。

そんなことないのに。仕事から帰ってきて化粧も落とさずに寝るし、休みの日は風呂にすら入らないくらいガサツなのに。しまった洗濯物も山になってからやっとたたむくらいのダメっぷりなのに(その洗濯物の山の向こうで今これ書いてるし)。しかしそのフィルターはもう拭えないものだと思っているので、実際キヨを連れて友人に会いに行くと、何となく身構えている人とか、どう接してよいか分からなくて戸惑っている人もいる(と、勝手に思っているだけだったらごめんなさい)。

その身構えを、どう上手く省いていけるだろう。ずっと自問自答している。ずっと自問自答している、という事はもう自分では答えが出せないかもしれないので、私によくお会いする方々に是非教えてほしい。私の説明に何が足りていないか、何が過剰なのかを。

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いつもヘッダーの写真悩むんだけど、今日は弟と栃木までLIVEを観に遊びに行ったときの写真。ライムスターのTシャツをオソロコーデ。ライムスター出ないのに。笑

あー栃木の皆さまにお会いしたい。

ハードルがあるのは障害者だけじゃない。「私たちは健常者だから」と言うそこのあなただって、職場や家族間での対人関係だったり病気したり大変な事(ハードル)が沢山あるでしょ?という意味で、エッセイのタイトルは「世の中全員、障害者。」と言います。おススメ&サポートして頂けたら嬉しいです。