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vol.13:私なんぞが考える提言には、既に横文字の名前があってだな。

障害者家族エッセイストの川島田ユミヲです。

私は学生時代、殆どと言っていいほど勉強をしてきませんでした。

なので、実年齢向けの読み物を読んでいても度々

「難しい言葉が出てきたぞェ…」

と、本筋以前にそこに出てくる単語を調べて、意味を咀嚼し、読み進めて、今度は

「よめないかんじ が あらわれた !」

と道を塞がれ、また調べて…と、とにかく時間がかかる。

さまようよろい

まるでロール・プレイング・ゲームだ。出口のわからない洞窟を彷徨いながら、言葉というモンスターと戦い続けて

「だーめだあああーーー!全然わっかんないやーーーーー!」

と言ってカチッと脳みその電源をOFFに。これの繰り返しであり、これは少し癖になってしまっている気がする。自分のわからない事に関してはスイッチをOFFに。便利な機能かもしれないが、時としてウィークポイントにもなりうる。

自分はこうして言葉を綴るのは好きなくせに、読む方はからっきしなのだ。

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勝手だね~~〜〜。(←まんぷくふとる、というキャラクターがわかる人はほぼ同世代、或いはウッチャンナンチャン好きに認定)。

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昔、先人たちや諸先輩方に言われていた事が、今になってようやっとわかる。

「勉強は、ちゃんとしておいた方がいい」

これに尽きる。ちゃんとしなくても、勉強に対して抱く “嫌” 度数をもうちょっと下げた方がいい。

「後悔しない人生を!」をモットーに生きてきたけれど、今のこの状況は完全に大後悔である。大後悔時代。勉強王に、俺はなれない!机の引き出しに入って過去に戻れるならば、勉強が嫌いだったあの頃のユミヲ少年を説得しに行きたい。

多分当時の私の中で「勉強=悪」というか「頑張っても褒めてもらえない」とか、母の日にカーネーションをプレゼントしても

「そんなものいらないからもっと勉強しろ」

ってなじられたり。「しろ」とか「やれ」という命令ばかりだった。「しろ」とか「やれ」を言われるたびに、しなくなって、やらなくなった。

なので、勉強というもの、勉強するという事に関して、すごく偏見を持っていたかもしれません。母親の支配から離れた今となっては、勉強しなかったことをとても後悔しています。それは何故か。

今までコラムに書いてきた事の殆どには、どうやら名前がついているらしい、とわかったからだ。

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先日、ちょっとした会話の中で “ポリコレ” というワードが出てきて、はて…?初耳のお言葉…。と思い、ガタガタッとググってみた。

ポリティカル・コレクトネス(英: political correctness、略称:PC、ポリコレ)とは、社会の特定のグループのメンバーに 不快感や不利益を与えないように意図された言語、政策、対策を表す言葉であり、人種・宗教・性別などの違いによる偏見・差別を含まない中立的な表現や用語を用いることを指す。政治的妥当性とも言われる。

ふむ!中立的な表現!これはもしや!!「障害者」の表記問題も含まれるのか!?と思ってWikipediaのページをスイスイっとスクロールしたら、やはりそうだった。

漢字を「碍」に変えたところで、平仮名の「がい」にしたところで、本質的な部分に向き合わなかったら何の意味もない。だから私は敢えて本来の「障害者」という表記を使っている。

「障害者用トイレ→多目的トイレ→バリアフリートイレ」だってそう。あれ、過去のエッセイで書いてなかったか…?

これだ。最後の方に記述があります。

ほかにも

↑伊是名夏子さんの問題で知った “ トーンポリシング ”

↑コレに書いた “男の悪口を言う女” に関しては “ ミサンドリー ”というらしいです。

え、みんな、いつから使ってたん???

私が無知なだけ????これらの名前を知っていたら、説明を省けてもっとスムーズに、スマートに会話ができる、ってやつ??

しかし、どうもむず痒い。その現象についた名前を理解して、スマートに会話が出来たところで、どうだろうか。頭ではわかっていて、実際にその場に遭遇したら、実践できるのだろうか。教習所だったら、学科試験をクリアしても路上教習を経て実地試験をクリアしなければ、卒業できないじゃないか。

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そんな折、最近の私の主戦場であるTwitterとラジオで、こんな出来事があった。

まあ、もう解決済み…ではないけど、リスナーが感じた(えっ…なんでふたりとも直接話さないの…?)という、モヤモヤは少し晴れたかな~~?という感じなのですが。

これも実際問題、双方「学科だけ履修して、路上実習出てるん?」という感じでした。私はもう皆さんご存じの通り “普通とは少し違う” 環境が初期設定ですし、所謂 “性同一性障害” に該当する友人が数人いました。だから、気付いたら路上でハンドル握ったり、助手席とか後部座席に乗っていた。

見た目の性別とは違う中身を持っていたとしても「男のくせに」とか「女のくせに」とか「キモイ」とか思った事もなかった。それが故に、私は現在各所で問題提起されている「ジェンダー問題」で取り上げられる、様々な横文字の言葉を知らないのかもしれない。

もちろん、みんな同じ人間なんだから認め合っていこうよ!みたいな世の中になればいいな、とは思っている。

でも先ずは、自分の身近にいる大切な人に寄り添えるか、じゃない?

自分だけが良ければそれでいいのかよ!って言われるかもしれないけど、自分と自分の身の回りの人が健やかに穏やかに笑顔で過ごせて、その輪がたくさんあれば、世の中そんなにギスギスしなくて済むんじゃない?

そんなに簡単じゃないか。

でも、私の信念は変わらない。

私は物理的にも心理的にも、自分の半径300メートルにいる人たちが、健やかに穏やかに、笑顔でいてくれたらそれでいい。

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その後、OasisさんがTwitterで

真摯に向き合う(考えている)姿勢は感じます。むしろ最初からオアさんの問題提起に関しては「その考えはダメだ!」とか「危険な思想だ!」みたいな事は感じなかった。ただ、リプライで攻撃的に意見を言う人に対して、チョイスする言葉遣いが少し強過ぎた。

宇多丸さんは元々ジェンダー問題を「ラジオ番組で取り扱っている」だけで、ご本人が当事者に寄り添うまでは、正直ない気がする。むしろちょっとジェンダー問題苦手っていうか、むちゃくちゃ神経使ってるんじゃないかな。好きですけどね、ライムスター好きですけど、そこは別問題。だからこそ、私は「宇多さん、無理せんでええよ…?」って思ってしまいます。

おふたりの雪解けを知ったところで、宇多丸さんがパーソナリティーを務めるTBSラジオ「アフター6ジャンクション」に投書いたしました。読まれなかったけど。まあ、読まないか。一部そのメールの内容を公開いたします。

9月末のOasisさんのツイートの発言に関して、宇多丸さんとOasisさんおふたりの見解の擦り合わせと申しますか、歩み寄りができたのかな?と、勝手に私は解釈いたしました。
9月末に宇多丸さんが番組のOPでOasisさんについて言及されたときに「どうして直接お話しないで、Zeebraさん経由なんだろう…?」Oasisさんの一連のツイートを全て拝見して「どうしてそんな風に強い言葉で反論するんだろう…?」という疑問が残っていましたが、とにかくとにかく、おふたりの中でのわだかまりが解消されたように、Oasisさんからのツイートで見受けられて良かったです。
個人的な意見としては、おふたりが仰ることはどちらも「間違ってはいない」と思いますし「常にケースバイケースであって、正解がない(わからない)」とも思っています。むしろ、おふたりともジェンダー問題に目を向けているのであれば、私は
「もっと当事者と接する機会を設けて、そのリアルな声を届けるべき」
と思っております。
宇多丸さんはラジオというメディアで、OasisさんはK DUB SHINEさんのYouTubeチャンネルでジェンダー問題を話す配信も行っている。しかしどちらのメディアも、ジェンダーに関して悩みを抱えている当事者の方をゲストとしてお招きしている事は過去にあったでしょうか?(アトロクにおける視覚障害の方のカルチャー特集は楽しく拝聴させて頂いております)
私はそこに、リアルが足りていないのではないかと思っています。
ジェンダー問題とは少し論点がずれてしまうかもしれませんが、私には先天性の重度知的障害を持つ弟がおり、10年前から生活のサポートをしつつ二人三脚の生活をしています。弟がいなかったら感じることがなかったであろう気付きなどが、これまで多くありました。
そして昔から「差別をなくそう」という声にも少しだけ疑問を感じていました。「それは差別じゃないか?」「それは危険じゃないか?」と言う疑問そのものが「差別」になる事もあり、障害当事者は腫れ物扱いされてしまうからです。それが差別に該当するかどうかは、当事者それぞれで感じ方に違いがあります。リアルに障害を持つ人と接した事がない人が「差別だ」と決めつけるのは、少々言葉が強くなってしまって恐縮ですが、机上の空論と同じだと思います。
今後、ジェンダー特集を取り扱う際に、ご検討いただけたら幸いです。
長文・乱文、大変失礼いたしました。

↑こんな感じ。まあ、オンエア中には読みませんよね。でもいいんです。間違った事は言ってない。私の中では、間違ってない。誰かにとっては違うのかもしれない。でも、その誰かは私みたいなやつを攻撃せずに、その人の半径300メートルの人にわかってもらえるように、信念を貫き通せばいい。限られた人生の中で、わざわざ他所さまのお庭まで出向いてブンブンに走り回らなくていい。「じゃあ自分ならどうする?」と、自分の人生を充実させる事にチカラを発揮してほしい。

私は私なりに路上教習を続けながら、知らない横文字の標識を目にして、必要ならば学科を予約して、勉強していこうと思う。

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余談ですが本日のエッセイの表題は、コチラのオマージュでした。


今回もお読み頂きまして、ありがとうございます。

今後の執筆活動の資金にしていきたいので、よろしければサポートなどなどよろしくお願いいたします!

ハードルがあるのは障害者だけじゃない。「私たちは健常者だから」と言うそこのあなただって、職場や家族間での対人関係だったり病気したり大変な事(ハードル)が沢山あるでしょ?という意味で、エッセイのタイトルは「世の中全員、障害者。」と言います。おススメ&サポートして頂けたら嬉しいです。