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北極へスキー板をもってゆく げろげろ北極圏編 (北緯63度25分〜北緯68度14分)

1. 春の嵐・トロンハイム (北緯63度25分)

静かな寝台列車が一転、嵐のまっただなかのトロンハイムに差し掛かり、窓を雨粒が覆い尽くした。徐々に寝台列車内に活気が出てきて、遠くの個室からも話し声や物音が聞こえるようになってくると、列車の外はもう市街だ。

駅につき、車両ドアのステップを降りると、列車や駅のどこかから発される小さな機械の音に混じって雨の音が聞こえる。湿った涼しい空気が重い荷物を持ち上げている体に気持ちよく馴染んだ。少し出口に迷いそうになったが、目の前のエレベータに乗って地下道に入れば難しいことはなく、階数表記の「-1」や ATM みたいにごついロッカーの自動精算機を見ながら歩いていけばすぐ外につながっている。

トロンハイム駅は町の外れにある。駅の場所はいったい、埋め立てたのか、もとから砂嘴だったのか、砂浜を掘り込んだのか、とにかく小さな運河をはさんで町の入り口が見える。それがトロンハイム駅のメイン出口だ (というかメイン出口しかなさそうだ)。この運河に面してあざやかなアパートメントが立ち並んでおり、そのベースフロアはボートに乗れる艀につながっている。今、この素敵な運河が、ドブよりもひどいドドメ色になってたゆたゆと荒波を立てている。

ときおり強い風に煽られて、猛烈な通り雨がザバーッと来る。海辺の嵐の、あの冷たい水の塊のような風が遠くから駆けてきて、その足音がわりに道路の表面に溜まった水を濁らせながら突進してくる。駅舎入り口の屋根の下で外を眺めていると、この風にスキー板が煽られる。自然、板を抱える腕に力がこもった。これが地元なら、けっして外には出ないだろう。

でも、観光で来てるのだから。駅舎内に荷物をデポって運河の橋を渡る。風下へと顔を背けながら町まで歩いていく。窓枠のペンキ、ファサードの木の板……よく目を凝らして小さく平和で素敵な漁村を思い描こうとする。そのたびに風の気まぐれで雨が叩きつけてくる。

振り返ると駅舎があり、その右手には港へ続く通路があった。港!今日の午後は高速船に乗るのだ。港の様子を見ておこう……そうして走って通路を登ると、遮るもののなくなった海風がごーう、ごーうと吹いている。通路から線路を見下ろすと、砕石やセメントの砂と土嚢の土が混じっているような、荒れ果てた工事現場が見えた。

GLAVA はノルウェーのインシュレーションや化学繊維のメーカーだ。原色の袋はこの砂を保持する仕事をするはずではなかったのか。ただの使い終わった袋なら捨てればいいのに、こんな嵐のなかでくたびれたように散らかしたまま風で飛ばされぬよう足場の鉄棒を乱雑に積んである。土嚢のかわりとして置いたつもりならなんと心許ないことか。

港まで抜けると船が見えた。目を凝らしてみると Hurtigbåtterminal と書いてあるのがわかる。おそらく私たちが今日乗るはずの高速船とだいたい同じものだろう。隣には異常な数の拡声器が好き放題の方角を向いた、まるで生花みたいなブイが置いてある。

駅を飛び出して置いてきた同居人と荷物が気になって急いで駅舎に戻ると、ホットスナックを注文していた。一緒に腰掛け、屋内で軽食を食べて話していると、外の様子がだんだん冗談みたいに思えてきた。ぱたぱたぱた……鳩の群れが駅舎にテクテクと入ってきて羽を休め始めた。そうだよな……これはどう考えても休む一択だよ。

2. シート予約について (東京で済ませたので北緯35度41分)

トロンハイムで乗り換える列車はいくつかのクラスに分かれていて、厳密に席を指定して買うタイプだ。実は、ノルウェーの列車は日本の海外乗り鉄勢やツアー会社には有名なようだ。列車のどの席をとるかがツアープランナーの腕の見せ所だ云々、「私たちはお客様に最高の思い出を作っていただけるよう、窓の柱や云々を考慮して……プロならではの豊富な知識と」云々、何形の車両はシートが云々……。

私たちは、私たちがどこに座るか自分で決める。とはいえ、たどり着く答えはだいたいおなじだ。窓際がいいに決まっているし、シートの間隔と窓の大きさが互いに素みたいになっているので、真横と前方に視界がある場所は限られている。

もうひとつ考えるのは、向かい合わせのボックスシートにするか、新幹線みたいに前の席も前方を向いた席にするか。私は、旅では知らない人が目の前に来るのが苦ではないし、どちらかといえば話したい方だ。とはいえ、今回は同居人 (同行者でもある) と相談してボックスになっていない方を選択した。

それから、長距離座ることを考えて Komfort 席がより好ましい。というのも、 Komfort にアップグレードするのに掛かる追加料金はどうやら一律のようなのだ。10時間程度乗っていることを考えると、だんぜん得だ。

ここまでの条件が出れば、もう迷うことはほとんどない。この列車の編成はすごく短く、 Komfort は1台しかないからだ。 Komfort のうち後ろ向きの椅子が半分あり (つまり京阪スタイルではないということ)、しかも席の真横と斜め前方が一枚のつながった窓になっている席は三列に一列程度しかない。そして対面になっていない席は残りの半分程度……なあんだ、プロの選び方といっても、簡単な消去法じゃないか。

そうそう、書き忘れていたけど、一番大事なこと。海際の席の方がうれしい。ほとんど列車は北に向かって走るので、左が海際だ。

上のスクリーンショットでいうところの 25, 26 にあたる席を迷わず予約した。出来る私、旅行のプロ。

3. トロンハイムフィヨルドを横切って (北緯63度25分〜北緯64度3分)

スキー板は上の棚に、ザックは車両入り口付近の荷物コーナーにしっかりと置いた。頭上に落ちたりすれば、文字通り死活に関わるわけだから。と、勝手知ったるふうに書いたが、実はもともと適当にスキー板を入り口の荷物コーナーに立て掛けて備え付けの適当な紐でゆわえていた。やがて車掌か検札がやってくると、これを一瞥し、少し引っ張り、左右に少し振ってみて、私たちに「ナイナイ……(Nei, nei. | No, no.)」をしてくれたのでそのようにしている。

さて、そうやって大荷物を抱えて席の周辺でがたがたとやっていれば、やがて列車は動き出す。上で貼ったトロンハイムの海の写真 (生花みたいなブイが写ってるやつ) をみても、トロンハイムはまるで外海に面しているかのようだ。雲が異常に分厚いのが錯覚の原因を負うべきだろう。ところがトロンハイムはとても大きなフィヨルドの中ほどに位置する、湾内の街なのだ。湾のさらに奥へと列車が進んでいくにつれ、徐々に「対岸」が見えてくる……。

これ、「対岸」一切みえないけど、多分ここ:

https://www.google.co.jp/maps/@63.4293657,10.5603728,3a,19.4y,359.25h,87.99t/data=!3m6!1e1!3m4!1srs40VsUUcCPvkqEo7R7N3A!2e0!7i13312!8i6656

天気が悪すぎるのか、フィヨルドが広すぎるのか。天気ひとつでこんなに自分の位置が違って思えるなら、ヴァイキングは迷子にならなかったのか。フィヨルドの湾内で迷子になって死んだらやっぱり不名誉なのかな。

さて、このフィヨルドは広く、その岸辺のところどころに小さな集落や工場、集積場、港が点在している。これらの物流の接続を一手に引き受ける欧州自動車道路 E6 号線とほぼ平行して、あるいはもう少し海際を通って線路が引かれている。より広く、より新しい E6 号線はどちらかと言えば内陸側を通っていくが (車の方が登坂力高いし)、単線の非電化線路である Nordlandsbanen (Northern land line) は多くの区間で海際ギリギリを攻めて高低差を少なく抑えている (北海道の銭函〜小樽間とノリが同じといえば同じである)。これはこの区間が技術力の低い戦前につくられたことと関係しているのだろう。

また、線路が海際にあるのはもうひとつ理由があるかもしれない。このフィヨルドのような入り組んだ地形では、海に突き出した砂嘴のような部分か、入江からさらに入った河口の堆積平野といったわずかな平地を利用して町が作られる。もともと U 字谷だったのだから、平らでない場所の斜度はいいかげんなものではない。まるでハーゲンダッツの CM のスプーンのように自然が抉り取った地形に住もうとしたノルド人たちへ、神々はわずかな平地を払い戻した。だがそれらは海へと突き出した部分と凹んだ部分に散らばったために、鉄道はこうした町をひとつひとつくねくねと編み物のように繋がなければ町の住民がトロンハイムへ通勤するのを助けられないのだ。幹線道路 E6 号線を内陸に用意してそこから支線をたくさん伸ばせばよい自動車道と線路とが違うのは、そうした事情もあると思った。

完全に海際を走っている。銭函周辺とノリが相当近い。家が多いようにみえるとしたら、そもそも家が大きくて鮮やかなので目立つのと、山の斜面にそのまま住んでいるので前方投影面積が大きいためではないか。

さて、この集落を通り抜けると、百メートル程度だろうか、すこし陸側を通るようになった。海際と違ってノルウェーの田園風景をみえるので、また別の楽しみがある。垂れ込めた雲を通しても反対側の陸地がみえた。フィヨルドの奥へずんずんと分け入ったので、ようやくその幅が狭くなってきたのだろう。

やがて再び海際まできて、新たな町に差し掛かった。Hommelvik というここら一帯では比較的大きな町だ。海辺のリサイクル工場の波止場に当たり前のように漁船のような小さな船がつけてあるのがノルウェー的な風景というかんじで印象的だ。

3.1 Nygardsveien の線路は何者か

Google map をみるかぎり、線路は Hommelvik の湾に忠実に沿って敷いてあり、その両側の岬の海側を通っているように見える (線路が見つからない場合は Muruvik の北にある引込線から追っていくか、 Google のロゴの上にある駅から辿ればよい)。ここで問題なのは東側の岸に沿った線路である。

https://www.google.co.jp/maps/@63.4241688,10.7941376,13.63z

実はこの線路は通った覚えがない。5ヶ月前の記憶といえ、写真にも残っていない。ところがこの付近のストリートビューからは線路が見える。ぴかぴかの線路とまでは言えないが、上面が銀色になっており、それなりの列車が通っていることを伺わせる。この線路がみえる小路の名前 Nygardsvegen をとって、とりあえずその名前で呼ぶとする。では、 Nygardsvegen の線路は何者か。

https://www.google.co.jp/maps/@63.4264625,10.8044087,3a,75y,299.39h,85.06t/data=!3m6!1e1!3m4!1swy45Zd2K93RamLUSGq7hcg!2e0!7i13312!8i6656

そこで航空写真を見てみると、 Malvikveien と川の交点あたりで Nordlandsbanen の本線はトンネルに入っているのが分かった。だが、 Nygardsvegen の線路のあたりが線路だ/でないと確実に言えるほど鮮明には写っていない。

そこで Norgeskart を開いてみると、トンネルがトロンハイム空港まで一気に引かれていると描かれている!(下図の黒い点線)

しかも Muruvik の引込線のあったあたりが支線のどんづまりになっている。

上のストリートビューが 2010 年と古めであることを考えると、おそらくトンネルのバイパスが近年開通した線路で、しかも Google map には (航空写真を除いて) まだ反映されていないということが伺える。だが、 Muruvik の線路の先から出ている茶色の点線は結局なんなんだ。

https://www.norgeskart.no/#!?project=seeiendom&layers=1002,1013,1014,1015&zoom=11&lat=7040471.45&lon=291709.01


寄っても寄っても意味不明である。

こんなときに頼れるのはあんたや!オープンストリートマップは人類の知の結晶。

https://www.openstreetmap.org/#map=19/63.43468/10.82291

Hommelvik と Muruvik のあいだにある Tursti (遊歩道、というかハイキングコース?) について調べてみると、トロンハイムの行政は Malvikstien と呼んでいるユニバーサルデザインの散歩道になっていることがわかった。海辺の svaberg (羊背岩という氷河期の終わりに一気に溶けた氷河で削られて作られた、スカンディナビアでよく見られるなめらかな岩) の上で釣りをしたりできるらしい。

https://www.trondheim.no/malvikstien

3.2 待避線 (北緯63度33分) にて

岸は春の訪れを匂わせる景色だったが、一度内陸に立ち寄るとすぐ雪景色になる。もともと海辺というのはあたたかいものだし、暖流の影響もあって海岸沿いには一足先に春がくるようだ。

駅間隔が徐々に広くなり、もういくつか海に突き出した岩山と波の間を進んでゆくと、対岸や間にある島が目の前に見えるようになってきた。これはオーセンフィヨルデンという支流?の狭いフィヨルドに入ったためだ。北海道の浜辺の目の前に瀬戸内海があるとこういう見た目になるだろうか。

オーセンフィヨルデン東岸のとても小さな浜に待避線が設けられている。ここから先、磯みたいな線路が続くので無理にでも頑張って作ったのだろう。ここでなにかの通過待ちをしているあいだは隣に伸びる E6 号線を行き来する自動車を眺めるのが楽しい。次の写真は冷凍貨物を運ぶトレーラーのようだ。ノルウェー全体がそうであるようにこのあたりも漁業がさかんで、こうしたでかい冷凍貨物トレーラーが経済を支えている……のでしょうね、日本の漁村と同じで。

Google map でみると崖のテクスチャが線路なようにしか見えない。

https://www.google.co.jp/maps/place/Steinkjer,+Norway/@63.5472033,10.8931948,73a,35y,56.34h,79.23t/data=!3m1!1e3!4m12!1m6!3m5!1s0x466d3c5450966403:0xee02f5433c366f0!2sMetallco+Hommelvik!8m2!3d63.4140899!4d10.7830827!3m4!1s0x46729b2515316e75:0xca8edfcf60119129!8m2!3d64.0150227!4d11.4952612

3.3 車内巡検

さて、オーセンフィヨルデンを抜け、本体にあたるトロンハイムフィヨルドに復帰すると、また対岸は雲に隠れてしまった。どこまでも変わらない田園風景が続くかに感じるが、あえて言えばだんだんと木の密度が下がってきたようにみえる。

ちょうどこの前後の駅で乗ってきた地元の人がしばらく席を外したと思ったらランチボックスを抱えてきたので、私たちも食堂車を探すことにした。

この列車には、 Komfort の他に Familie や Standard といったクラスがある。これらの車両のあいだに食堂車が挟まり、まとめて先頭の機関車が引っ張るという形式のようだ。機関車かっこいいですね。

Familie 車はほぼ Komfort 車と同じ座席の作りのようだったが、車両の隅にアクリルで覆われたプレイルームが備えられている。 Standard 車の内装はよく覚えていないが、とにかく全体的に乗客はまばらで、 Familie に至っては途中で 1,2 組入っていた程度だったと思う。赤字路線か?

食堂車では車掌のような人が二人カウンター状の空間にいて、なにやら楽しげに話している。小さなコンビニと同じく冷蔵庫から飲み物やサラダをとれるし、なにかホットスナックのような加熱調理もあるようだった。あとはランチボックスがある。散々迷ってからメニューを持ち帰り、さらに長い間吟味してから鮭料理を食べることにした、ノルウェーなので。あと、読めると嬉しくなって買いたくなるというのもある。"laks" がシャケなのは duolingo でやった。じゃあ、 pepperlaks とは……?

Komfort 車では、コーヒーがセルフサービスで無料だ。ノルウェーはコーヒー消費大国である。世界で第3位の一人当たりコーヒー消費量を誇るらしい。私の勘だと、深めに焙煎してわずかに粗めに砕くとこういう味にできる気がする。セルフサービスのコーヒーはインスタントのものだったはずだが、少なくとも粗悪なものではなく、ぐびぐび、ぐびぐび飲んだ。

ところで、車内を移動して分かったのだが、私たちの席のところだけ異常に Wifi の電波が薄い。車両の前の方にアクセスポイントがあり、真ん中にたどり着く直前で電波が力尽きているようだった。座席選びに自信満々だったが、もう少し考慮ポイントがあると知った。ちなみに電波をつかんでさえいれば 1.2 Mbps くらい出る。これを速いとみるか遅いとみるかは……私は、意外にまともな速度だな、と思いましたよ。知り合いに報告したら「おっそいね」って言われたけど。

座席のうしろにはマガジンスペースがあり、雑誌や新聞を読みながらカウンターでゆっくり足を伸ばすこともできる。

ここまでで移動してきた経路をざっくり示す。

https://www.norgeskart.no/#!?project=norgeskart&layers=1004&zoom=8&lat=7065429.69&lon=304559.43&drawing=oaKg6WwBG-JbQxgpsJ4Y&panel=searchOptionsPanel&markerLat=7043719.562499999&markerLon=273634.93749999994&sok=Smedstuveien

4. 限界凍結湿地 (北緯64度3分〜北緯65度50分)

さて、海辺から遠ざかったり再び近づいたりを繰り返しつつ、徐々に列車は内陸へ入っていった。というよりも、フィヨルドがついに陸地へ食い込むのを諦めて海の方へ帰っていった (実は鉤爪形に折り返して西にある半島のなかに侵食していくのだが)。そうするとどうなるか。北大西洋海流というセントラルヒーティングを失い、巨人たちの冬が来るのである。

凍てつく冬は列車を待ちかまえていた。

スタインヒェル (Steinkjer) を通りすぎて海と別れた列車は、すぐ Reinsvatnet (トナカイ池) から始まり Snåsavatnet という大きな湖へ繋がる、全長約 50km ほどの湿地に囲まれた湖水地帯へ入る。この湖水地帯はとても細長く、先ほどのフィヨルドの続きのような構造になっている。実際、スタインヒェルの建つ堆積大地がダムの役割を果たす前、もともとフィヨルドの一部だったのだろう。いまでは淡水を湛え、飲み水の供給源となっている。そして、淡水は容易に凍る。周囲に広がる湿地とともに、完全に凍結している。すでに昼が近づいているが、車内の電光表示板には「3℃」と出ていた。外気温だろう。

波すら凍った湖と一時間弱併走したあと、湖の最北、スノーサ (Snåsa) 郊外へ入る。荒々しく冷涼とした景色に早くも疲れてきた目にやさしいのどかな景色だ。飼料のようなロールが積み上がっている。

スノーサ駅を発車すると、湖周辺の湿地に輪をかけて広く寒々しい湿地帯に入る。凍結していない部分はわずかに流れが表面の雪を突き破ったところだけで、奥の水はどれも凍った色合いをしている。そして細い松だけが茂っている。

上の写真の奥にみえる丘がずっと列車を追いかけてきて、やがて前方にふさがった。列車は逃げるように谷をすすんでいき、小さなトンネルを次々抜けると、丘の代わりに今度は川が追いかけてきた。やってくるはずの春から逃げ出そうと我先に解け出した雪は、この川を一気に増水させ、その表面に張っていた氷を打ち砕いて押し流している。巨大な氷の塊がすごい速度で流れては、小さな滝に出会うたびに宙を舞う。目を凝らして滝を見ていると子どもくらいの大きさの氷の塊が次々投げ出されて砕けていくので、見たことも想像したこともない異常な光景にショックを受けた。

Grong 駅という緑色のかわいい駅を過ぎるとすぐに長いトンネルに入り、やがて別の川が出迎えてくれた。より寒く、より広く、より凍結した、氷を押し流すためにあるような川だ。ここから景色はいっそう寒く荒々しくなる。

蛇行するたびに氷を岸辺に押し付けるので、青く圧縮された岩のような氷が見える。綺麗な鉱石ですね〜こんなに大きな単結晶、素敵……宝石の国でみた。

松も凍った湿地ではまばらに生えるしかなく、いじけたようにか細い苗木ばかりがわずかに生えている。すぐ目の上には植生の標高限界が見える。静かな世界だ。

スタインヒェルから数えて2時間ほど霜の巨人の原風景のような厳しすぎる湿地を突き進んでいくと、やがて山地を抜けて『北の大地』 Nordland 県に入る。路線の名前、 Nordlandsbanen の由来だ。空模様が変わり、青空が広がる。日の光を見てぐっと背伸びをした。とても気持ちの良い天気だ。川は以前にもまして凍りついているが。

拡大してみてみよう。

集合恐怖症の人は見すぎない方がいいな……。

5. 北極圏へようこそ (北緯65度50分〜北緯67度18分)

壁みたいな山となんだかもうよくわからんくなってる川を次々通り抜けると、やがて『モーの海』モショーン (Mosjøen) という街につく。この町の目の前の山の等高線の密度がえぐすぎる。岸から山頂までの平均斜度、40度くらいか?

https://www.norgeskart.no/#!?project=seeiendom&layers=1002,1013,1014,1015&zoom=11&lat=7304647.59&lon=416211.91&panel=searchOptionsPanel

モショーンで再会した海はとても綺麗なフィヨルドで、どこまでも続いていく山が湾の奥から一望でき、雪に覆われた山頂は光り輝いている。波は力強く、岸には氷がたくさん落ちている……。

ついに海水が凍り始める温度になった。

それからはあっという間に氷の海になった。とくに奥まった湾に出るたびに凍った海水が出迎えてくれた。潮の満ち引きの関係で、岸辺には分厚い氷のブロックが打ち上げられておりかさなっている。ぴんと平べったい、さわり心地のよさそうな氷だ。

ちょうどこのころ、具体的には思い出せないが、 モショーンから『ラーナのモー』モイラーナ (Mo i Rana) の間に多くの乗客が乗ってきた。10時間も列車に乗って端から端までいくやつは観光客の私たちくらいで、地元の人はだいたい近距離・中距離程度の移動につかっているのだと思う。そろそろ終点の大都市・ボードー (Bodø) まで3時間くらいの距離になったのでそうした客が順繰りに乗ってきたのだろう。

通路はさんで隣の席は向かい合わせのボックス席になっており、そこに座った4人組がなにやらノルウェー語で盛り上がっている。家族旅行かなと思ったが、たしか別々の駅で乗ってきたような……。

話しかけたのか、話しかけられたのか、彼らのうちでいちばん年長にみえる男性と話した。

「ノルウェーではこうして旅で出会った人と会話を楽しんで旅をするのが醍醐味なんだ」というようなことを言っていたように思う。彼らはまったく見ず知らずの他人だったらしい。それぞれの人の旅の目的の話になって、スヴァールバルを目指していること、とりあえず今日はロフォーテン諸島の宿に向かっていることを話した。他の人の目的は忘れてしまったが、一人のおばあさん (と言っていいと思う) はボードーの赤十字病院で行なわれるカンファレンスに向かっている途中で、予定していた船便をやめて列車に乗ったといっていたのが印象に残っている。インテリのおばあさん、すごく素敵。それから、旅程に関してなんですが……。

「私たちはロフォーテン諸島まで今日の高速船で向かうつもりですが、船便はキャンセルになり得ますか?」そう尋ねると、その年長の男性は顔をしかめて少し考え込み、短い会話をしてから「おそらく大丈夫だろう」と請け負った。博識そうなその振る舞いに気を惹かれていくつか疑問をぶつけたところ、いろいろなことを教えてくれた。

例えば、今日もおおく見たこうした赤い建物。どうして赤ばかりなんだと思う───

それはね、赤いペンキが一番安いからさ──あんまり納得しなかったが、とにかくそういうことらしい。赤いペンキが一番安い。まあそうかもしれないが……。どうせペンキを塗らなければ木造家屋はいたんでしまうし、こだわりがなければ赤いものを皆選ぶのだという。とくに家畜小屋のように巨大で意匠にこだわる理由のないものは赤いのが普通で、もはや小屋を建てるなら赤にするものだという固定観念が出来てしまっているから、もしペンキの価格差がないとしても赤ばかりになる──。そう付け足されてようやく納得した。ここで読者のみなさんへのクイズです。赤い小屋。このページにいくつ出てきたでしょうか。

そういえばそろそろ巨大なゴミ収集場の近くを通るよ。臭いでわかることだってあるんだから──ほら、あれさ──農場にある白いロールはなんですか?──どんなやつ?──(拙い説明)──うーん、たぶんそれは餌だと思うけど──などなど。

さて、隣の席の老若男女グループの全員が流暢な英語を話していろいろなことを教えてくれたりお菓子を分けてくれたりした。ノルウェーの英語話者率は非常に高い。ノルウェー語を使う場面はこんなときだ。

「ロフォーテンではどんな宿に泊まるんだい?」「えっと……。なんだっけ……たしか……あっ、 Vandrerhjem です」「Vandrerhjem ね……」「知ってるんですか?」「いや、別に。その名前の意味は……」「hjem は家ですよね? Vandrerは……」「ハイカーだよ。自然が豊かなところだからね」──それから、地名や方言についてちょっとした小咄を聞ける。

その間にも外の景色はいっそう寒さを増す。

「ノルウェーは初めて?」この問いは旅行中幾度か訊ねられたが、その最初の質問をもらった。目に入るいろんなものにいちいち驚いていたからかもしれない。「はい、初めてですね」「そうよね。北極圏も?」「そうです」「もうすぐ通るよ、左側の窓にモニュメントがあるんだ」。慌てて窓を確認して「もう通りますか??」と聞き返すと、笑って「いや、まあまだだね。その時になったら言うよ」。こういうやつすごくうれしい。博識になったらやりたい。

列車は徐々に標高をあげていき、列車はいつのまにか雪を捲き上げながら進むようになった。対向する列車も雪がまぶしてある。

今まではどんなに過酷そうなところでも赤松だけは食いつくように生えていたのだが、ついに遠くにまばらに見えるだけになってしまった。列車が捲き上げる雪がたびたび窓を叩いていたのが、よりいっそう激しくなる。

「これまでも凄かったですけど、いちだんと寒い景色になりましたね」「ああ、それはこのあたりの標高が路線でいちばん高いからだよ」「それでも今年はずいぶん寒いじゃないの」「そうそう。もう暖かくていい (should be) 頃なんだけど」「ぜったいにね (must be)」。周囲に木が生えていないのは今年に限った話ではないが、こんなにたくさん残っている雪や氷に関しては地元の人の目からみても異常気象なようだ。おばあさんは憂鬱そうに外を眺め始めてしまった。

「そういえば、このあたりは難工事でね」……。話によると、このあたりの区間は戦中にナチスの傀儡政府による強制労働により多くの人が命を落としながら作ったということだ。そして、それには戦争捕虜も多く投入され……。今 Wikipedia で参照した記事によると、 1942年9月から終戦までに投入された戦争捕虜は 21,600 人に達し、その 10% は命を落としたとのこと。https://en.wikipedia.org/wiki/Nordland_Line#Grong%E2%80%93Mo_i_Rana
それを聞きながら、私の頭のなかではクワイ河マーチが鳴り始めた。いたたまれなくなって、泰緬鉄道の話をし、申し訳なかったと伝えた。

しんみりしたところで、北極圏の碑がもうすぐ見えるはずだと聞いた。視界がめちゃくちゃ開けているので見逃しようがなく、ひとしきりオオーっとしてからカメラを構える余裕がある。これです。

地軸の傾きの分だけ傾いた素朴な球体オブジェクトが北極圏の線上にあるのめちゃくちゃいいな。あとは懐中電灯だけあれば極夜、白夜その他、様々な極地の天体ショーが説明できるわけですからね。

北極圏に入ってしばらくするとこの鉄道の最高地点になり、元来た角度と同じ 1.8% の角度で降りてゆく。お菓子のやりとりをしながら景色をながめて話しているうちに列車は美しい谷を通って一気に海まで降りた。ファウスケ (Fauske) 市で半島に入り、西へと向かう。ファウスケから先の路線は戦後できたと聞いた。E6 号線と別れ、工業地帯に入り、いや増していく交通、積み上がった石炭、立ち並ぶ住宅……

定刻で17時32分着を見込んでいたが、17時29分撮影のメタデータが付いている写真の場所を探したところボードー駅まで減速せずに5分程度かかる場所だったので、だいたい5から7分程度遅れたと思われる。もちろん、10時間の長旅にしてはかなり良い精度で運行したのは間違いない。

そうしておおよそ700km、緯度で4度程度北上する長い列車旅がおわり、終点・ボードーについた。

いろいろ教えてくださってありがとうございます、 Tusen takk、 あ、ひとつ最後に、高速船の乗り場ってどっちですか? Google map や Norgeskart には Svolvær に向かう高速船の航路が書き込まれていないのですが……「たぶんそれなら……あっそれは駅に近いほうだと思うよ」「駅に近い方っていうと Fergekai の方ですか?」「どうだっけ……」

最後の最後のところであまり当てにならなさそうだったのだが、おそらく Hurtigbåtterminal のようなものが別にあるという方にベットした。

降りて眺めてみると、かなり居住性の高かったこの客車、外装はけっこう古典的というか直線的と言うか、これはこれで好きなタイプだ。もちろん機関車もね。

前章と今章での移動経路。

https://www.norgeskart.no/#!?project=norgeskart&layers=1004&zoom=6&lat=7278088.50&lon=502559.67&drawing=oaKg6WwBG-JbQxgpsJ4Y&panel=searchOptionsPanel&markerLat=7043719.562499999&markerLon=273634.93749999994&sok=Smedstuveien

6. エルザ・ラウラ・レンベルグ号 (北緯67度18分〜北緯68度14分)

前章おわりに賭けたとおり、地図に名前のない左側の丸のところに向かって最終的には正しかったのだが、まず歩道や路地が工事中になっていてその港への行き方がわからない。海洋国家過ぎて街のいたるところに港や艀があるから港が目立たないのだ。

列車はプラットフォームがふたつくらい、数えかたによってはひとつしかない小さな櫛形ターミナルに入っている。そこから外へ自明な方角へあるくと駅ビルがある。時計台と待合室があるほとんどアパートみたいな小さな建物で、それを通り抜けるといきなり道に出る。

重い荷物を持って雪を踏み踏み (歩道には雪かきの掻き残しがあるね、くらいの量だけど) 歩いていっても、自信を持ってこっちだ、と言える方角がない。そもそも目の前が小さなラウンドアバウトなのが方向感覚に不安を与える。

非番になってどこかに行こうとしている NSB の職員たちを捕まえて道を聞くと、「あー右にあるよ」「右ってこっちは海ですが、道は……」「(少しノルウェー語で言葉を交わす)……あーまっすぐ行って、右右 (手振り)」。めちゃくちゃ分かりやすすぎて説明し辛いことを聞いてしまったのかな?と思って適当にまっすぐ行っても普通に街が続いている。

実は高速船の出船時間が迫っている。もともと40分くらいの乗り換え時間のつもりだったが (ノルウェーの列車は結構正確だという事前情報を仕入れていた)、列車の遅れ、初動のミス、高速船ダイヤの勘違いといった小さな要因が重なって、残り時間が15分くらいに縮んでしまっていた。

重い荷物、こんなに歩くはずないよな……という不信、とくに存在の気配のない港……こうした不安定要素が重なってより歩くペースが落ち、互いを励ましあって探した。港は海にしかないんだから先に港に出てしまおうという戦略をとって、最短経路で防波堤沿いに入り荷物を同行者に途中から預けてダッシュして船を特定し、もうひとり来ますと伝えてようやく安堵した。

夕日に照らされて誇らしげに乗船する者を見つめる偉人。安心してのんびりこんな写真撮っているが、この直前には「まだ乗れますか?!あとひとり来ます!」「乗れるけど、ほんとはあっちでチケット買ってきて欲しいんだけど……」「えっあっ……あの建物ですか?」「もうすぐ出るから中で売るよ。次は気を付けてね」という怒られをやっている。出船してからふつうにクレジットカードの端末を持ってきてくれた。緊急・特別で対応してくれた割には準備が良い……と思ったけどあきらかにこれ船内の売店のやつだな。ご迷惑をお掛けしました。

コーヒーがぶがぶ飲んでからの走って酸欠、おまけに着込んでるから妙に暑い。あまり体調がいいとは言えない状態だったのでこの時点で水をしっかりとっておけばよかったが、支払いやなにやらを待ったり座る場所を見繕ったりしているあいだにそのままになってしまった。その状態で出港、さよならユーラシア大陸。ここから3時間半、距離にして約80海里、150キロメートルの船旅でスヴォルヴァ (Svolvær) という町へ向かう。

こうしてみると結構大きい港町だなあ。一切観光せずに通過。この町は戦争で瓦礫の山になったとのことだけど、周囲の自然は人気らしい。また訪れたらちゃんと泊まってみたい。

この船で目指すのは、ノルウェーのなかでも景勝地といわれるロフォーテン諸島。北大西洋に突き出した巨大な一本の半島のようにみえるが、微妙に小さな海峡に切り刻まれ、それぞれがジグソーパズルのピースのように小さな島になっている。先端にある町 Å (オー) が世界最短地名ということで知られているが、狂気の山脈を海に沈めたような地形に町がへばりつき、タラ漁と観光業しかない限界経済を営んでいるといった「実践的な」面白さがあるようだ。

さて、高速船は徐々に速度をあげていくと、目の前に崖の岩肌が現れてくる。

高速船はなおも速度を上げ、こうした崖に守られるのをやめると果敢に高い波に突っ込んでいき、腹の底に胃袋が激突する。利用客を見渡すと地元の人ばかりで、座って談笑をしつつピザなどの食事を分け合う学生たち、ひとりで深刻そうな顔をしながらスマートフォンでパズルゲームをしたりしているおばさん、なにか読んでいるおじさん。幼稚園児くらいの少女は興味深そうに外を見ようとしてはその父親に抱きかかえられたり、降りては手を支えられたりしながら船のあちこちを探検している。あるいは船長のような人が手すりを伝わりながらスルスルと巧みに船の中を移動していく。その合間にも船は右舷に波が衝突し、続いて左舷を波に持ち上げられ、3秒周期程度でザザ……ドシン!……ザプリ……キュッキュ……ザプリ……ドシン……と高い音を立てている。

そうして縦に横に (特に縦方向が辛い) 振られていると、水平線と雲の合間から、先ほどの崖の「強い版」が出てくる。

どんどんビジュアルが「強く」なっていく。下の写真の山は頂上が「垂直」になっている。垂直パートがでかい。

近づくと威容は荘厳の領域になってくる。

荒れた岩肌をながめているうちに雲の上の方により尖った高い山があることに気づいて目が釘付けになり、その山容をまじまじと見つめてしまう。

こういう「強い」山が集団で並んでいる。そうこうしているうちに日が暮れたが、暗くなることなくただただ空の青さがいろいろな青に移り変わってゆく (太陽の水平線に対する侵入角が低いため、なかなか薄明から暗くならない)。

さらに高くなる波をものともせず、もの憂げに外を見る青年、楽しげだが上品に小声で話しつつ延々と炭水化物や油を取りつづける少女たち、子どもと一緒になって楽しげに船のあちこちを観察している父親、ぐんぐんと速度を増す船……。

ドシン。

またすべての内臓が一度に骨盤に叩きつけられるようなひときわ強い波。いつの間にか同行者は目を瞑り、冷や汗を流しながら横になっている。話しかけてもジェスチャーで放っておいてくれというばかり。外を見たほうが楽になるよ、と言っても、外は『裏世界ピクニック』で出てくるような狂った青い光、それから次々行き交う二足歩行する妖怪みたいなアス比の山だけ。自分も徐々に目の焦点が外れたりする感覚を覚えてきた。のびのび過ごす地元民に混じって、私たちだけが船酔いしている。

窓についた、波だか雨だかのつぶに目の焦点が合った。窓の外の三角のぼやけたシルエットが焦点の外から目に「理解」させてこようとする。

船内には海図とスケジュールが表示されており、山の名前や距離なんかも確認できる。山の角ひとつひとつの品評会だってできるだろう。前面の展望もすごくよくて、次に出てくる山を見定めては椅子に手をつきつつ船の中を移動していろんな角度で山を迎えるなかで、前方の席へと次第に落ち着いた。進行方向をみたほうが酔わないという説もある。どの窓をみても喩えようのない色に進化しているが。

最初に出港したときはわくわくしながらみていた表示板だが、行く手の海が開けていきそうになるたびに次第に高い波に怯えるようになってきた。そうこうしているうちにも船は快調に難所を飛び抜けていき、ところどころの村に立ち寄る。その村を指折り数えては、左のスケジュールに突き合わせて祈るようになってきた。村に入港して揺れがおさまると楽になり、出港するために回頭しようとして船が左右へ嫌々と揺れると目が回る。

船はノートンセキュリティに守られ、家は庭である山に守られる。

やがて次の村までの間が伸び、海は開け、船の速度はさらにあがった。ロフォーテンへと舵を切って船が北上を開始した合図だ。波による臓器を振り出す力は増長し、外は完全な暗闇になって視線を逸らすものがなくなって三半規管と視界の矛盾は極限まで高まった。揺れの少ない場所をさがして後方中央の席に移動する。

私は、いつからだろうか、具合が悪いとき、祈るような姿勢でクッと精神力を高めて意識をキープしようと試みる癖がある。まさにこのとき、水を買ってはぐいぐいと飲み、首に当てたり額に当てたりしては手を組んで前の座席と頭の間に入れてもたれ掛かっていた。

船長が心配して「怖いのか?このくらいの揺れはいつも (usually) のことだ、船はびくともしないからだいじょうぶだ」とやさしい言葉を掛けてくれた。でも私は海難事故が怖いんじゃない!……そのとき脳にうかんできたのは「always…100% usually…90% normally…80% often…70%………seldom…1% never…0%」の図だ。 "usually"……?聞き返すと、あっ、いや、別に "usually" ではないけど、とにかく大丈夫だから。「わかりました、単にとても具合が悪くなっただけなので……」「水は……もってるね。袋はいるかい?」「ここにあるのは知ってます」「よかった。普段はもっと落ち着いているよ」「明日はどうですか?明日トロムソに向かうのですが」「うーん、明日かあ。少なくともこっちの海は今日ほどじゃないと思うけどね」。たしかそんな会話をしていたはずだ。目を回しながらでも絞り出すように英語で今後の旅行に必要な情報を集める生命力のプロ。

祈るうちにようやく船の速度はおちた。日はとっぷり暮れ、夜の闇のなかで港の明かりが輝いている。

ザックを背負い、エルザ・ラウラ・レンベルグ号に別れを告げ、Svolvær の大地に足をつける。一歩。だいじょうぶ。二歩。あれ?なんだかめまいが。三歩、バランスを保つのが少し難しい……。

フッティルーテンの巨大な豪華客船を横にみつつ休憩しようと背筋を伸ばした瞬間、突沸のような吐き気に襲われ、ザックを背負ったまま、服も汚さずバランスも崩さず、信じられないくらい器用に吐きつづけた。すでにトイレで吐ききって楽になっていた同行者に助けられ、どうにかすべてを吐ききった。そうしているうちに宿までのバスを逃したのでノルウェーの高いタクシーをつかって宿のある寒村 Kabelvåg まで移動した。産油国なのにタクシーが高い……。

宿の名前を知ってるとタクシーの運転手は請け負ったが、夏のあいだ同じ名前になるという学校の施設で降ろされてしまい、その設備の全容をその場にいた中学生くらいの子供たちに教わっても私たちは半信半疑のまま。すべてが憶測のまま、おそらくその宿をしっているという生徒に教わった場所へむかうため Kabelvåg 港という小さな漁港を一周しても町は暗く、いまだ宿は見当たらない。 SIM がないために地図もみれず困惑していると、地元出身のお兄さんの車が場所を教えてくれたうえに見かねて車で送ってくれた。そうしてようやく宿の敷地にたどり着いた。

これは途中で歩いているところでみかけた Kabelvåg のはずれにある教会。

その宿はたくさんの小屋の集合で構成されているタイプ。夜遅くになってしまったため受付の場所もよくわからず再び困惑……。最終的に宿の岸辺で仲良く空を見ている老夫婦に話しかけたらイベントが発生し、宿に入れたころにはへとへとになっていた。

ところでエルザ・ラウラ・レンベルグについて。もっとも有名な著作は "Infor lif eller död? Sanningsord i de Lappska förhållandena (Do we face life or death? Words of truth about the Lappish situation)" であり、まさに「生きるか死ぬか」を時代に突きつけられ、その課題を純化させて自分の民族へ問いつづけてきた女性だったのだろう。その苦難とは比べられないものの、その名を関した船でいきなり本能に訴えかける揺さぶりを加えられたという偶然の一致について、このときは気づいていなかった。

https://www.norgeskart.no/#!?project=norgeskart&layers=1002&zoom=7&lat=7524093.38&lon=479533.20

7. 次回予告

そんなわけでロフォーテン諸島の中衛スヴォルヴァ (の外れの寒村) のベッドで予定どおり横になれたふたりだったが、翌日からついにスケジュールが狂いはじめる……。バスの限界に挑む立体機動、壮絶な景色、不可解なノルウェーの携帯電話事業者法、そして土曜日……。
北ノルウェーでももっとも美しい船旅のひとつと言われる航路を無事通れるのか。あるいは予定どおり翌々日に控えたロングイェールビン行きの飛行機に乗れるのか。

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