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料理と、洗い物

料理と、洗い物

実家に帰って、料理を作る。

普段は全く作らない料理も、趣味として作るとすごく楽しい。

例えばこれを作った。具沢山で、にんにくと生姜の香りが凄く良くて、我ながら美味しかった。

毎日作らないといけないとすれば、料理をするのはすごくめんどくさい。

レシピを決め、買い物に行き、冷蔵庫に突っ込んだ後取り出して、焼いたり煮たりする。

数十分かけて作った後、「美味しい」と言ってもらうと一瞬の優越感を覚える。ここで料理にケチをつけられるとすごくイライラする。

食べ終わってすこしゆっくりしたら、洗い物の時間だ。これがめんどくさい。

洗い物。たくさんの洗い物。

洗って、干して、移動させて。また使うのに。

今回のように、好きで料理をしたあとならまだいい。でも、これをルーティンとして毎日やっているとしたら、僕には絶対に耐えられない。

今日、家族全員の料理を作った。帰ってくる時間がバラバラで、最後の食べるのはお母さんだった。

食べ終わって、お皿とコップを洗うのは全然良い。びっくりしたのは、そこで出てきた大量のお弁当周りの洗い物だ。

お弁当の容器と蓋、シリコンの受け皿、箸箱、おにぎりの入れ物、水筒。お父さんの分もあって、大量だった。

このとき、何かぞっとした。

毎朝お弁当を作って、毎晩それを洗って、それをおよそ300日繰り返す。

「家事をきちんとやって偉い」
「主婦としての役目を果たしている」
「お弁当には愛情が籠もる」

確かにそうだと思う。僕には少なくとも出来ないし、その姿勢には尊敬する。

ただ、僕はそれを、パートナーにさせたくないと思った。純粋にめんどくさいし、もっと他のことに時間を使って欲しいと思った。

僕は、家事を極限まで減らして、自分の時間を増やしている。

料理はほとんどしないし、掃除は水拭きロボット。洗濯も乾燥機を使うので、干す手間などない。

これは、自分の時間をより優先度の高いことに使うために、そうしている。自分の時間にオーナーシップを持つからこそ、そうしている。

家事を好きでやっているとか、時々力を入れて料理を作るなら分かる。しかし、そこに魅力を覚えずに、ただ惰性で続けているならば、出来るだけそんなことはさせたくないと思う。

最近、お惣菜コーナーで買い物をする主婦に、老人がケチをつけたことがTwitterのトレンドに載っていた。

根底には、「母親=家事をすべき役割の人」というイメージがあって、それをもとに老人はケチをつけたのだと思う。

自分の時間を大切にして欲しい

ここでジェンダーあれこれを議論するつもりはないのだが、ここでは、もっと自分の時間を大切にして欲しい、というメッセージを僕は伝えたい。

田舎の実家に帰ってきて改めて思うが、自分の生活と比べて無駄が多すぎる。

自分がミニマリズムに傾倒し、超合理的な生活を行っているのは抜きにしても、もっと自分の時間を大切にすることを考えていいと思う。

別に、生産性の高い時間を増やそう、とかそういった話ではない。ダラダラドラマを見るもいいし、お昼寝をするのもいい。

そういった、自分にとってゆとりのある時間を増やすため、といったモチベーションでも良い。全然良いので、普段の生活に無駄はないかな?と考えてみて欲しい。

実は、これに気づくのは難しい。なぜなら、それはすでに習慣化していて、自分にとって当たり前のものだから。

例えば、実家に帰ってきて思ったのは、扉を開け締めする手間だ。

一人暮らし先には、玄関以外に扉がない。だから、「エアコンをつけるから扉を閉める。」「開けたら締めるのがマナー。」みたいなことを考える必要性がない。

他にも、リモコンを使う手間に気づいた。テレビ、エアコン、電気など、わざわざ持ち帰る手間がある。

僕はリモコンを全てスマホに入れているので、そのような持ち替えの手間がない。

挙げるとキリがないが、少なくともこれらが「手間」だと認識するのは難しいと思う。だって、それが当たり前で必要性ある行為なのだから。

もしかすると、「え?それって手間じゃなくない?一瞬で終わることじゃん」と思う人がいるかもしれない。

それに対しては、物理的な時間と意思決定の2つの観点から伝えたいことがある。

まず、時間的な観点から。シンプルに、こういったルーティンはチリツモである。

仮に、1日15分かかっているルーティンを無くしたとする。すると、1ヶ月で7.5時間、1年で90時間(≒4日間)の物理的な時間が生まれる。

ルーティンを見直すと、どんな人でも15分は節約の余地があると思う。僕は実家に帰ってきて、1~2時間は改善できると感じた。

続いて、意思決定の観点から。人間は、1日およそ9,000回の意思決定を行っていると言われている。そして、質の高い意思決定を行える数には、上限もあると言われている。

つまり、無駄を減らせば減らすほど、1つ1つの意思決定の質を上げられる。それは大抵仕事に充てられるので、仕事でのミスが減り、パフォーマンスも上がると思う。

「習慣化しているなら意思決定してないのでは?」という批判もあると思うが、確かに習慣化は意思決定を実質無いことにできる。

しかし、習慣化したところで習慣は定数にならないことが多い。いつもどおりやっていると思っても、なぜか忘れたり、いつもと違うことをしてしまったりしていないだろうか。

いつもどおり行うには、習慣は少なければ少ないほどいいのだ。つまり、生活から無駄を省いてルーティンをそもそも減らすことが大切だと思う。

よく、「効率化」「省スペース化」などを考えると思うが、それよりもまず先に「それって無くせないの?」という問を投げることから始めたほうが良いと思う。

例えば、無印に行って収納ケースを買うよりも、まずその収納するものって要らないんじゃないの?と問いかけてみる。その後収納ケースを買う判断をするほうが、結果として目的を達成できていることが多いと思う。

洗い物という一つの行為からふと思ったことをつらつら書いてきたが、これを僕はお母さんに強制したりはしていない。

お母さんに対して、それって無駄だからやめなよ、と言うことはない。まあ、それも1つの在り方だよな、と思う。

最終的に、自分の時間をどの程度重要視するのかが大切だと思う。何となく時間を使うのか、いやいや自分の大切なことに時間を使うのか。

少なくとも僕は、後者の選択をこれからもしていこうと改めて思った。

普段は料理をしない代わりに、実家に帰ってきたときは楽しく料理する。普段は優先度を下げて、一時的に優先度を上げる。そんな感じで料理と付き合っていこうと思った。

「時間がない」現代人にとって、少しでも有益な時間が増えますように。

ここまでお読みくださり、ありがとうございました。




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