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20210111⑲街の銭湯の三男坊として生まれた僕。~遥かなる思い出~

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みなさん、こんにちは!ioriです。今日は幼き頃のうちの家業についてお話しします。

うちの実家の家業は、知る限りおじいちゃんの代からいわゆる街の銭湯、お風呂屋さんを営んでいました。2代目となった父親が亡くなるまで、僕が小学6年生辺りまでだったと思います。背景としては、そのころはお風呂がない家、風呂なしアパート、現業職事務所が近隣に多数ありなどの環境が重なり、うちの銭湯は毎日、賑わっていたのではないかと子供ながらに思っていました。ちなみに当時の入浴料金は大人120円でした。

よそは、どうかはわかってませんでしたが?銭湯の家なので、当然か?は判りませんが?家の風呂場はありませんでした。

なので、当然、銭湯に来る客と同じくして銭湯を利用していました。今だから言えますが、当時はそれが本当に嫌でした。

今となれば、何て贅沢なことを!と猛省しています。また嫌だった理由も今考えれば、大した理由では、なかったはず。

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昭和40年代の方なら、子供の頃に銭湯をよく利用されていたと思います。↑こんなおやじいませんでしたか?うちにもこういう番人的なおじさんがいました。顔を合わすと、決まってこう言われました。『おい!三男坊!わしが30数えたるさかいに肩まで湯船につかれと!』頭を押さえられていました。今と違いお湯の温度も熱い湯舟でした。

なので、30秒が拷問タイムでしかありませんでした。

このおじさんが当時は怖くて、怖くてなりませんでした。

『よーしっ!おっちゃんがジュース奢ったる!』・・・

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↑当時、お風呂屋さんにあったドリンクはこんな感じでした。

恐怖におののいていた僕にはジュースでは収まりませんでしたが?ジュースを飲む僕を見るおじさんのその時の笑顔は、今でも忘れていません。世話好きなおじさんやったんやな。

あと時折、番台で店番もしていました。特に小遣い等貰うことなく、自主的やったと思いますが?

稀に当時、小学生であった僕のクラスの女の子がお母さんと一緒に女湯へご来店・・・そういう時に限って女湯で老婦人がのぼせられる・・・

僕は、決まってお水に塩を混ぜたものをコップに入れて、女湯脱衣場の老婦人に手渡しに行く→のぼせたら塩水の定義は未だにわかりません

『同級生女子よ、どうか?脱衣場に居ないでくれ!』と強く強く念じながら・・・

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あと、この当時やったと思います。番台に父親が購読していたプロレス雑誌を僕が見るようになり、その後プロレスにハマりました。

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でもね、でもね?家業が銭湯でよかったところもあったんです。

休みの日の脱衣場で自転車の練習したり、兄弟とキャッチボールしたり、風呂屋全体で、かくれんぼしたり等、子供にとっては遊び場としてもその威力を発揮していたものです。

あと、僕は4人兄弟ですが?当時京都市の浴場組合に加盟していたこともあり、統一して毎水曜日が休業でしたが、父親が日曜日に休業日を変更してくれました。そのことにより日曜日は家族レジャー、外食などを楽しませてくれて、月曜日の学校の作文ネタには、困らなかったかな?

その後、大人になるにつれ、街から銭湯がなくなり始めて俗にいうスーパー銭湯なるものが出始めてきました。街の銭湯の数倍もあるスペース、露天風呂、レストラン、軽食完備、マッサージ施設あり。

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今現在、家族同伴ならスーパー銭湯

独りなら、街の銭湯

街の銭湯に行くと、たまに同級生に会います。

未だに、言われます・・・

『銭湯の息子が銭湯来てるでぇ!』と常套句のように・・・

ええやん、別に・・・

僕は、人見知りな為、街の銭湯で他の客と世間話ができるほどの器ではありませんが?

その地域に住む、人々の憩いの場、他人が他人でない場

あんな雰囲気が今もなお、風情として残る街の銭湯をこよなく愛しています。 街の銭湯サイコー!

次の休みに街の銭湯行こっ!

https://www.kyo1010.com/list.html

今日は、ここまで。

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