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【雑記】ページが開いたその時は

 「度し難い」という言葉の読み方と意味を、最近まで知らなかった。

 順当に読めば「どしがたい」なのだが、字面的にもっと難しい読み方をしそうだという予感がなんとなくあり、「たびしがたい」「たくしがたい」「よりがたい」など色々と推測していた。推測はしていたが調べはしなかった。どうやら普通に「どしがたい」と読むらしい。どしがたい。外国の偉人の名前でありそうな響きだ。ドシ=ガタイ(1899~1956、哲学者)。

 意味については、あまり日常的に聞く言葉ではないので知らなくても問題ないかと思い放置していた。もしかすると何か知らない方が良い言葉の隠語表現かもしれないという予感もあったので知らないままにしていたのだが、いざ調べてみたら「救いようがない」という意味らしい。思っていたより普通だった。某人気アニメの台詞として有名であるということも初めて知った。度し難い。なるほど。

 かくして「度し難い」という言葉について知ったわけだが、知る前と比べて「度し難い」という言葉に対する心理的距離があまり変わらなかったことに驚いた。
 新しい言葉を知った時、大抵の場合は知る前よりもその言葉に親近感を覚えたり実際に使ってみたくなったりするのだが、「度し難い」については特にそういう気持ちが起きなかった。おそらく今後もこの言葉を積極的に使うことはないと思うし、この言葉について何か言及することもないように思う。

 今までは例えば「言い得て妙」という言葉を覚えた時には、なんだか格好いい言葉を覚えてしまったぞという感覚があり、日常会話や書き言葉でもよく使っていたりしたが、そういう体験が年齢を重ねるにつれて少なくなってきたように思う。
 語彙が増えることは自分の世界を広げると同時に、言葉に対する感動のハードルを上げてしまっているのかもしれない。とはいえ語彙を増やさないまま生きていくことは難しいので、これはある種の構造的欠陥なのだろう。
 構造的欠陥という言葉も覚えた当初は少し興奮した覚えがある。

 であれば、知らないまま放置しておくというのもあながち悪くないのかもしれない。知らないまま「こういう読み方だろうか」「なんとなくこういう意味だろうか」と色々思いを巡らせている時、そこには無限の可能性があることになる。
 たとえそうやって推測した読み方や意味が間違っていたとしても、それはつまり自分の中の辞書にしか載っていない特別な言葉といえる。日本語としては間違っていても、自分語としては合っているのだ。
 勿論それで後々恥をかくのも自分なのだが。

 もし今後脳科学が発達して人間の脳内辞書を解析できるようになったとしたら、私の脳内辞書には沢山の間違った日本語がやたらカラフルな字で印刷されていることだろう。
 度し難いだろうが、どうか笑わないでほしい。



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