二次障害発症の話①

今日は発達障害を原因とする精神障害(二次障害)の話をしようと思う。

私が精神障害を自覚したのは中学2年生だったが不登校で昼夜逆転生活だったので正直そんなに問題なかった。たまに保健室登校をしており、精神科に通院していた1つ上の先輩から睡眠薬(ベゲタミンB)をもらい時々飲んでいる…状況で

「眠れない」

それだけだったが、「高校受験」というワードが本格的に出てくる中学3年生になったころから二次障害が一気に悪化した。

一番最初に問題になったのが、

「気がついたら外にいた」「数時間前の記憶が無い」

ことだった。医学的に言うと「解離症状」である。

その次に今までは3日眠れない生活だったのが

「7日に1回3時間眠る」

生活に変わり、テンションが完全におかしくなった。

幻聴も始まった。

そして食欲がなくなり体重が30Kgを切り身長はかなり低い方だが、25kgに最終的には体重が落ちた。ここまで来ると摂食障害と言われても仕方がない

そんな中、この状況を見かねた養護教諭から中学校3年生の時に初めて「発達障害の疑いがあると思う」と言われた。その上で、精神科へ受診することを勧められ、発達障害の専門医を教えてもらった。

当時、歯医者への受診をしていたので保険証は自己管理していたが、問題になったのが医療費である。

その当時、付き合っていた年上の彼氏とアフェリエイトやPC修理で稼いだお金を元手に親に黙って精神科への門を叩いた。中学3年生7月の話である。

後に(11月くらいだったかな)、協会けんぽから毎年発行される確定申告で使う医療費のお知らせでバレてメタクソ怒られたが。その上メタクソ殴られた。いわゆる半殺し。

かなり精神状態が悪い私にはかなりこたえた。

親は「精神科」が受け入れられない。

自分の娘が「精神障害者」になったのが受け入れられないというのがあったのだと思う。あくまでも推測だが。私から見て明らかにそういう態度であった。

そして、発達障害の専門医にADHDと診断された。おまけに二次障害として「解離性同一性障害」であった。

様々な薬を試したが少しは良くなったりかなり悪化したり自傷行為が増えたりと12月にかけて確実に精神症状は悪くなった。

そして自殺企図を何度も繰り返した。運良く(悪く?)親にはバレなかったけど、医者が認めるほどのかなり危険な方法だった。医者に冗談抜きで死ぬから頼むからやめてくれと懇願された。

ここにその内容を書くと冗談抜きに死んでしまうので内容は書かないし、今後もこのノートにそのことは一切公開しない。

そして年末、家庭内トラブルが深刻化し、医者が警察に通報し警察から身柄保護されその上、警察からの通告で児童相談所に保護された。

今の時代では、割りとケースは増えてきているが、私の時代ではかなりのハードルが高い(門前払いされて当たり前の)時代だった。

実際、医師→児童相談所へ通告ですら全く相手にされなかった。

結局朝から、担任・SSWR(スクールソーシャルワーカー)・主治医・警察官が交渉に交渉を重ね児童相談所が緊急受理会議を開き一時保護所に着いたのは深夜だった。

相変わらず、精神症状が悪く一時保護所でもかなり荒れており、1月の中頃になっても高校受験云々以前の問題だった。

が、担任の先生が児童相談所へ面会に来て高校受験の願書をどうするか意思確認に来た。

とりあえず高校受験は受けることにしたが、当時11種類(睡眠薬・精神安定剤・抗精神病薬・気分安定薬)を服用しており薬の副作用で震える手では到底願書と課題が書ける状況ではなかった。

人も、自分も読めない字を一生懸命書いたがダメだった。心の骨がボッキリ折れたがそれでも提出しようとしていた。自分ですら読めないのにね…。

私が行こうと思っていた高校は公立の某通信制高校だったが、面会に来た母に反対され地元の公立の定時制高校に願書を出すことになった。

定時制高校の願書はどうやって書いたのかすら覚えていない。

目で見た情報は割りと画像のように記憶に残るタイプだが、記憶の写真が一枚もない。期限が間近すぎてもしかしたら自分で書いていないのかもしれない。

そんな中、某独立行政法人国立病院機構の精神科単科病院に転院することになった。精神症状が悪すぎて転院して入院した方がいいという児童相談所の判断だった。

そして、1月31日精神科病院へ医療保護入院となった。

当時その病院では児童思春期病棟入院患者第1号だったらしい。

(後日談…いや、当時の受け持ち看護師から去年聞いた話だが)

あの時はすぐに退院できるものだと思っていたし、精神科病院の理不尽さは知る由もなかった。


次回へ続く

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