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「上に立つ権威に従う」とは~ローマ人への手紙13章より

ローマ13章1〜5節には「権威に従え」と書かれているが、これに抵抗感を持つ人もいる。極端な話、「ヒットラーも神によって立てられた」とか、「ヒットラーにでも従うべき」とも読めるからだ。そこまで行かずとも、クリスチャンは政治を批判してはいけないのか、デモもだめなのか、政府を訴えてはいけないのか、という疑問を持つのだろう。

人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです。したがって、権威に反抗する者は、神の定めに逆らうのです。逆らう者は自分の身にさばきを招きます。
支配者を恐ろしいと思うのは、良い行いをするときではなく、悪を行うときです。権威を恐ろしいと思いたくなければ、善を行いなさい。そうすれば、権威から称賛されます。彼はあなたに益を与えるための、神のしもべなのです。しかし、もしあなたが悪を行うなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行う人には怒りをもって報います。ですから、怒りが恐ろしいからだけでなく、良心のためにも従うべきです。(ローマ人への手紙 13章1~5節) 

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

僕だって、このローマ13:1−5を額縁に入れて壁に飾っている人がいたら正直引くだろう。しかしそれなら、一体ここは何を言っているのか。

手紙の宛先はローマ教会、そこで「上に立つ権威」と言えば当然ローマ帝国、ローマ皇帝だ。パウロはローマ帝国に服従せよと言っているのか。ペテロは迫害を受けたとき「人に従うより神に従うべきだ」(使徒5:29)と言ったが、パウロはこれと反対のことを言っているのか。「そんなことはないはず」と暗黙の了解のうちにすっと読み飛ばしてしまいがちだが、疑問を投げかけられて、しばし考えてみた。

これは手紙なので、パウロは明確に言いたいことがあるはずだ。この前後を見てみると、以下のような流れになっている。

 12章9〜21節 兄弟愛、復讐するな、善を持って悪に報いよ
 13章1〜7節  権威に従え、納税の義務
    8〜10節 隣人を愛せ
   11〜14節 欲望のために生きるな
 14章1〜23節 他の人の信仰を尊重し、つまづきを与えるな

13章1〜7節は、前後を愛で挟まれていることがわかる。だからここも「愛」をベースにした主張と捉えられるだろう。パウロの主張は権威側には向いていない。そうではなく、「神に従う者が愛の実践として権威とどう向き合うか」を教えようとしているのだろう。

パウロはこの直前13:21で、「善を持って悪に報いよ」と言っている。これから考えると、盲従とは逆の、右の頬を叩かれたら左の頬を出すような、積極的な意味での「従う」姿勢がイメージされる。

神は、ときに「悪」をも用いられる。エジプトのファラオしかり、ダビデを狙うサウル王しかり。

ダビデなど、自分を殺しにきたサウル王を討つ絶好のチャンスだったのに、「主に油注がれた方に手を下すなどあり得ない」と、サウルの上着の裾だけを切り取った(サムエル記第一24章)。ダビデのこの行動は、ここでパウロが言いたいことと合っている気がする。

横暴な権威に、クリスチャンは力で対抗するのではない。良心から従うことで、13:20にあるように「こうして彼の頭上に燃える炭火を積むことになる」。悪を裁くのは神のなさること。神に従う者は、さばきを神に任せる。

神を愛し、人を愛せ。神の命令は結局これに尽きる。そういうベースのもとに、人を恐れるからではなく良心をもって権威に従え。そういう行動原理を示しているのではないだろうか。

確かに一見、「それ理想論でしょ」と言いたくなるような箇所ではある。しかしそれを、十字架という究極の状況で実践したのがイエスであった。ピラトに裁かれたからではなく、私たちのために、神のみこころに従って十字架に引かれていったイエスのことを、心に留めておきたい。