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「神はすべてを益としてくださる」と他人に言えるか?について考えてみた

新約聖書のローマ人への手紙8章28節は、キリスト者にとって大きな慰め、励ましとなる聖句だ。

神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。(ローマ8:28、新改訳2017)

しかしこれを、今現実に深い苦しみや悩みの中にある人に示して、「今は苦しいかも知れないけれど、神様はいつか益としてくださるんだよ」と言ってみても、どれだけの慰めになるのかは大いに疑問だ。「おまえに何がわかる」と反感を買うかも知れないし、良くて「大きなお世話」と思われるのがせいぜいだろう。そこには、みことばを安易な「ツール」として使おうとするときの危険がある気がする。

この節にいたる文脈

使徒パウロが書いたローマ書は全体として、人は行いによってではなく、信仰によって救われること(信仰義認)を論理だてて教えている。そしてその前提は神の命令(律法)の遵守である。

①人は神の命令を遵守すれば救われ、遵守しなければ裁かれる。
②しかし人はそれを完全に行うことはできない。
③だからイエスがそれを完全に行った上で、私たちの代わりに神の裁きを受けてくださった。
④だからもはや私が裁かれることはなく、救われている。

「信じれば救われる」というのは、つまりはこのような意味だ。借金はもう返済済み。それを信じる人は借金から解放されていることを味わえるし、信じない人は未だに自分が借金に追われていると思い続ける、ということだ。

このようなことが7章まで、順を追って、丁寧に説明されている。そして8章には、このように信じて救われた私たちが何を受けるのか、どのような価値観に生きるのかが書かれている。

そのような文脈で「すべてのことが益となる」が出てくる。

苦しみをどう捉えるか

生きている限り、悩みや苦しみはついて回る。キリスト者だからといって災害に合わないわけではない。愛する人の死に会わないわけではない。自分が病気にならないわけではない。その点で考えれば、この世の中でキリスト者は、そうでない人と同様なありとあらゆる苦難にあうし、加えて、キリスト者にならなければ味わうことのなかった類の苦難にもあう。迫害などはその最たるものだ。

そういう苦難が変わらずあるのなら、キリスト者ということにどういう意味があるのか? それはもはやキリスト者は苦難を、そうでない人と同じようには捉えない、ということだ。

今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りないと私は考えます。(ローマ8:18、新改訳2017)

つまり、苦難が相対化されるのだ。栄光という絶対的なものが約束されている、それに比べればという比較だ。キリスト者は、苦難が苦難のまま終わるとは捉えない。救いと望みはセットだからだ。

私たち自身も、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています。私たちは、この望みとともに救われたのです。(ローマ8:23-24、新改訳2017)

キリスト者は「望みとともに」ある。苦難はあるが、その後に望みがある。だからパウロはこう結論する。

これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。私たちはこう確信しています。死も、いのちも、・・・私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。(ローマ8:37-39、新改訳2017)

これはキリスト者への約束であり、確信だ。

これは誰に対する言葉か

なぜ「すべてのことが益となる」のか。それは、結末が苦難でないことが約束されているからだ。苦難は苦難で終わらない。キリスト者である私は、この苦難の後に、イエスを長子とする共同相続人としての栄光が約束されている。

そうすると、この「すべてのことが益となる」は、これが「自分はこのような見方で苦難を捉えている」という信仰表明であるときに、口にする意味がある。決して苦難の中にいる「他の人への慰めの言葉」にしたときではない。だから、苦難の外からこの言葉をかけても、意味はないし効果もない。私が他の人の苦しみについてどう考えるかではないのだ。それこそ、大きなお世話だ。

自分が他の人に関してできることがあるとしたら、その人の苦しみを自分のもの、自分の苦しみとして捉えることだ。その上でこの言葉を、自分の信仰として表明する。それが「あなたの隣人を、あなた自身と同じように愛せよ」という最も大切な律法の趣旨だろう。

これは決して易しいことではない。むしろ多くの場合は、できない。それが、このローマ8:28を苦しむ人に言うことが難しい理由だろう。イエスは他の場面で、「この人はどうなるのか」と問うペテロにこう言っている。

(その人のことは)あなたに何の関わりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。(ヨハネの福音書21:22、新改訳2017)

まず自分がイエスに従う、そこからだと思う。

※これは私の個人的な考察を綴ったものです。