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[宇多田ヒカル「Gold ~また逢う日まで~」歌詞]へのChatGPTによる精神分析の結果

宇多田ヒカルの曲が好きで、先月は「Gold ~また逢う日まで~」にハマっていた。新宿を俯いて歩いているだけの私と違って、宇多田ヒカルは宙に浮き神へと近づいている感じがある。本当に同じ人間という種族なのだろうか?崇高すぎる。個人的には、この曲を聴いていた時期に、辛いこともあって、聞くとトラウマが蘇る。お気持ちを昇華させるためにも分析で客観視した。


宇多田ヒカルと精神分析

宇多田ヒカルは、精神分析のカウンセリングの経験が創作に影響していると語っていることで知られています。

そこで、試しにChatGPTに歌詞を伝えて、精神分析を依頼しました。

メンタルクリニックのブログでも、「あなたは精神分析医です。」と前置きすることで相談するテクニックが紹介されています。

そこで、今回は、次の質問をしました。

「あなたはフロイト派の精神分析医です。」

「あなたはユング派の精神分析医です。」

「あなたはラカン派の精神分析医です。」

と前置きすることで歌詞を分析しました。

精神分析の結果

フロイト派の精神分析の結果

結果は下のようでした。幸福を外部でなく内部に求めているような歌詞だと気がつきました。その視点はなかったので、発見があったように思います。

宇多田ヒカルの「Gold ~また逢う日まで~」という歌におけるフロイト派の精神分析を行います。この歌詞では、幸せや愛、失恋や再会に対する感情が表現されています。フロイト派の分析では、これらの感情は無意識の欲求や内面的な葛藤を反映していると見ることができます。

例えば、「追いかけても追いつけぬ 幸せは側で待ってるだけ」という部分は、幸せを外部に求めることの虚無感を表しており、フロイト派ではこれを外部への欲求の投影と解釈することができます。また、「飾りにも 誰のものにもならない gold」というフレーズは、自己の価値や独立性を強調しており、自己同一性の確立というフロイト的なテーマに関連しています。

さらに、「また逢う日まで」という繰り返しは、未来への希望や期待、未解決の欲求を象徴していると解釈できます。フロイト派では、これを過去の経験や記憶との連続性として捉えることがあります。

全体的に、この歌は個人の内面的な旅と成長を描いており、フロイト派の精神分析では、これを無意識の願望、抑圧された感情、そして自己発見の過程として解釈することができます。

フロイトGPT


ユング派の精神分析の結果

結果は下のようになりました。深層心理や集合的無意識の観点では、外野はうるさいと言いながら、他者から注目されているような感覚を表していて、自分の内面が世界に開かれることの拒否を通じたアイデンティティの獲得が表現されていて、そこに私は共感していたかもしれないと振り返りました。

ユング派の精神分析の観点から宇多田ヒカルの「Gold ~また逢う日まで~」を分析すると、この歌詞は個人の深層心理や集合的無意識にアクセスしているように見えます。ユングの理論では、人間の感情や行動は個人的無意識だけでなく、人類共通の象徴やアーキタイプによって影響を受けているとされます。

この歌詞における「幸せ」や「別れ」といったテーマは、ユングが指摘する普遍的な経験や感情の表現とみなすことができます。特に、「また逢う日まで」という繰り返しは、別れと再会のアーキタイプ、つまり人生のサイクルや永遠のテーマへの言及と解釈できます。

また、「飾りにも 誰のものにもならない gold」というフレーズは、自己の真の価値や独自性の発見を象徴しており、これは自己実現や個性の確立というユングのアーキタイプと関連していると見ることができます。

このように、歌詞全体を通じて、ユング派の精神分析では、個人的な感情や経験が人類共通の深層心理と結びついていると解釈される可能性があります。

ユングGPT


ラカン派の精神分析の結果

結果は下のようになりました。「また逢う日まで」というフレーズ・タイトルを「欲望の延期」と捉えていて面白い。パッとみた感じ他者や象徴的秩序への対立と葛藤が表現されている気がした。

ラカン派の精神分析を用いて宇多田ヒカルの「Gold ~また逢う日まで~」を解釈すると、歌詞の中に表現されている感情や体験は、主体と他者、および象徴的な秩序との関係性を反映していると見ることができます。

ラカン派では、「欲望」は他者との関係性に根ざしていると考えられ、この歌詞の中に見られる「幸せ」や「失恋」は、他者との関わり合いの中で形成される自己の欲望の表現として解釈されます。特に、「また逢う日まで」というフレーズは、未来に対する欲望の延期を示しており、ラカンの「欠如」の概念に関連しています。

また、「飾りにも 誰のものにもならない gold」という表現は、自己の独立性や他者とは異なる個別性を強調しており、ラカン派ではこれを「自己のアイデンティティ」の確立と関連づけて考えることができます。

全体として、この歌は個人の内面世界と外界との複雑な関係性を探求しており、ラカン派の分析ではこれを象徴的な秩序との相互作用として捉えることが可能です。

ラカンGPT


人を精神分析することについて

今回は面白い結果だったように思います。一人では気づかなかった捉え方が出力されたからです。

対象が精神分析を受けているクリエイターだったという特殊なケースだったからうまくいったのかもしれません。他人の心をGPTに入れて、精神分析をかけること自体は、その人との関係性次第では危険なケースにもなるようなリスクはありそうです(自分の都合よく身近な人をコントロールするなど)

一方、自分自身の理解を深めるために自分が書いた文章などをGPT分析医に投げることは有益とも思いました。精神分析は高い料金がかかるからです。

宇多田ヒカルは精神分析の料金相場を決められたイギリスのケースを挙げていますが、日本は保険の適用外で週一回数十分で数千円から一万円くらいが相場のようです。

GPT-3やbingでは無料でできるし、GPT-4に課金しても3000円くらいなので自分の今まで書いたメモ書きとかをひたすらGPT精神分析医に分析させれば自分を無意識に支配している必要のなくなった価値観や行動習慣に気づけて生きやすくなる期待感が私にはあります。

そのため、GPTに課金している間で、自分の恥ずかしいメモ書きをいっぱい再利用して、精神分析にも強くなって、まずは操作系の念能力を自分自身に応用して人間の内側からの人格改造に取り組んでみようと思ったのでした。

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