バタイユにおける「賭け」と「投機」の違いについて-面接対策と他者による支援を例に-
昨日、過去をクヨクヨ考えないためには、未来に賭けることが必要であり、「賭けること」を探したいと書きました。
ここでの「賭けること」とは、哲学者のG・バタイユが提唱した概念です。
無神学大全という本の中では、「賭けること」と「投機」が次のように対比されています。
ギャンブルも、利益を求める人もいますが、純粋に遊びとして好きだという人もいるでしょう。
バタイユの「賭けること」とは、儲けのための賭けではなく、遊びとしての賭けであるといえます。
そして、「賭けること」は、何をやっても無駄という虚無に対抗するために必要なものでもあります。
バタイユにおける虚無の定義と、関連した存在の超越性の定義は次のように表されています。
虚無と存在の超越性は、ニーチェにおける善悪の彼岸に至った状態としての内在性と賭けることの関係性に結びつきます。
つまり、「賭けること」とは、「偶然に従い、可能なものを探求すること」だというわけです。
ここまで「賭けること」の定義や特徴を整理しました。
でも、抽象的すぎて、わからなくてもおかしくないです。
というより、本を読んでいた時の私は、ピンと来ませんでした。
しかし、ちょうど今日、私は「賭けること」を体験できました。
それは、私と数年来の交流がある学生時代の後輩で、現在大学院生の友人の就職面接の相談に乗ったことでした。
彼にとって、就職面接は未知への挑戦であり、通過するかどうかで金銭的、社会的利害が発生することから、彼は「投機」をしていると考えられます。
一方、私にとっては、彼が就職面接に通過するかどうかは私自身の金銭的。社会的利害が発生しないことから、私は「投機」ではなく「賭けること」をしていたと考えられます。
彼が以下の記事で紹介したゲーム理論的交渉術に誘導されて今日私の家まで来たという偶然から、ボランティアとして私は面接練習に付き合いました。
ゲーム理論で損得を追求したことから、損得を追求しない「賭けること」が生まれ、彼の未来に「賭けること」ができたことこそ、虚無への対抗として有り余るエネルギーを意味もなく浪費できた経験だったと振り返りました。
また、私はここ数日、人間の人生に究極的に意味はなく、ただの消化試合と考えて、憂鬱な気分に陥っていました。
しかし、この「人生は消化試合」という発想も、バタイユの視点からだと、まさしく「意味もなく、どうなるかわからない試合に人生を賭けること」と捉えると、決して否定的になるべき発想でもないような気もしてきました。
無意味に感じる日常に「賭けること(=遊び)」を、探すというよりむしろ気づくこと、展開が予想できてつまらないと感じるゲームやアニメですら、無駄に有り余るエネルギーの浪費をしているのだと再解釈することによって「笑い」に満ちた日々を送ることができそうだという予感が得られました。
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