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バタイユにおける「賭け」と「投機」の違いについて-面接対策と他者による支援を例に-

昨日、過去をクヨクヨ考えないためには、未来に賭けることが必要であり、「賭けること」を探したいと書きました。

ここでの「賭けること」とは、哲学者のG・バタイユが提唱した概念です。

無神学大全という本の中では、「賭けること」と「投機」が次のように対比されています。

行動するとは、未来の成果に向けて何かを投機することであるー将来の収穫を期して種をまくことである。この意味で行動は「賭けへの投入」だと言える。賭けられているのは労働自体であり資材であるーつまりたとえば農作業、畑、穀物、存在の資産の一部分そっくりである。

とはいえ「投機」と「賭けへの投入」は、前者が本質的に儲けをめざしてなされるという点で、異なっている。

どうあっても最低限「賭けへの投入」は、気違いじみたものに、未来時への配慮と無縁のものに、なりうるのである。

G・バタイユ著
酒井健訳
無神学大全
ニーチェについて
好運への意志
p.290

ギャンブルも、利益を求める人もいますが、純粋に遊びとして好きだという人もいるでしょう。

バタイユの「賭けること」とは、儲けのための賭けではなく、遊びとしての賭けであるといえます。

そして、「賭けること」は、何をやっても無駄という虚無に対抗するために必要なものでもあります。

バタイユにおける虚無の定義と、関連した存在の超越性の定義は次のように表されています。

虚無(neant)は、私にとっては、一個の存在の限界を意味する。定められた限界(時間のうえで、空間のうえで)のむこうには、もはや存在はない。この非存在は、われわれにとって、意味で満ちている。例えば、人が私を無化(aneantir)できるということを私は知っている。限界を持った存在とは一個の個別的な存在にすぎない。しかし他方、存在の総体(個々の存在の総和という意味での)というものはあるのだろうか。

存在の超越性(transcendance)は、根本的にこの虚無のことである。ある事物がわれわれを超越するのは、その事物が、虚無の彼方にある意味で虚無の構成要素のごとく現われるときなのである。

同上、pp.352-353

虚無と存在の超越性は、ニーチェにおける善悪の彼岸に至った状態としての内在性と賭けることの関係性に結びつきます。

内在性の状態は、自己を完全に「賭けに投じる」ことを含んでいる。この賭けへの投入がなされると、もっぱら偶然の到来(意志とは無関係に起きる)が、一個の存在を意のままに処すことができ、この存在をあれほど遠くへと運んでゆくことができるようになるのである。

超越性の欺瞞が暴露されるとただちに真面目なものは永遠に消えてなくなる。しかしまた真面目なものがないと賭け(=遊び)の無限なる深みも遠ざかってしまうのだ。賭け(=遊び)とは、可能なものの無限性を、偶然の到来に従いながら探求することなのである。

同上、pp.295-296

つまり、「賭けること」とは、「偶然に従い、可能なものを探求すること」だというわけです。

ここまで「賭けること」の定義や特徴を整理しました。

でも、抽象的すぎて、わからなくてもおかしくないです。

というより、本を読んでいた時の私は、ピンと来ませんでした。

しかし、ちょうど今日、私は「賭けること」を体験できました。

それは、私と数年来の交流がある学生時代の後輩で、現在大学院生の友人の就職面接の相談に乗ったことでした。

彼にとって、就職面接は未知への挑戦であり、通過するかどうかで金銭的、社会的利害が発生することから、彼は「投機」をしていると考えられます。

一方、私にとっては、彼が就職面接に通過するかどうかは私自身の金銭的。社会的利害が発生しないことから、私は「投機」ではなく「賭けること」をしていたと考えられます。

彼が以下の記事で紹介したゲーム理論的交渉術に誘導されて今日私の家まで来たという偶然から、ボランティアとして私は面接練習に付き合いました。

ゲーム理論で損得を追求したことから、損得を追求しない「賭けること」が生まれ、彼の未来に「賭けること」ができたことこそ、虚無への対抗として有り余るエネルギーを意味もなく浪費できた経験だったと振り返りました。

また、私はここ数日、人間の人生に究極的に意味はなく、ただの消化試合と考えて、憂鬱な気分に陥っていました。

しかし、この「人生は消化試合」という発想も、バタイユの視点からだと、まさしく「意味もなく、どうなるかわからない試合に人生を賭けること」と捉えると、決して否定的になるべき発想でもないような気もしてきました。

無意味に感じる日常に「賭けること(=遊び)」を、探すというよりむしろ気づくこと、展開が予想できてつまらないと感じるゲームやアニメですら、無駄に有り余るエネルギーの浪費をしているのだと再解釈することによって「笑い」に満ちた日々を送ることができそうだという予感が得られました。

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