問いと不安

なぜ

 小さいころから私は何か急に不安に襲われることがあります。その不安というのは、「なぜ私はここにいて」、「なぜ私は生きていて」、「なぜ私なのか」という3つのなぜから来ています。このなぜの解答を知ろうと、いろいろな書物からヒントを得ようとしました。宗教や哲学いろんな思想を学びましたが、後付けの根拠が書かれていることが多く、私を助けてはくれませんでした。しかし、なぜと問うというアプローチ自体が間違っているという結論が書かれた書物があり、私の中ではこれが一番しっくりきました。

なぜならば

 「なぜ」という言葉は、「なぜならば」という言葉とセットになります。「なぜならば」の後には、理由が述べられる必要があります。しかし、「なぜここにいるのか」というの理由に根拠はありません何の理由もなくここにいるのです。サルトルの実存主義に考え方は近いのかもしれません。何か理由あるいは目的が先にあって、その後で私が作られたのではない。先に私が作られて、後で理由が付けられる。だから私が私をどうしたいのかによって、理由が変わるのです。

 しかし、この理論で考えてしまうと、「私が私をどうしたいのかを私はどのような根拠をもとに考えたのか」というように、いつまでたっても答えに辿りつけないのです。なぜと問うというアプローチの仕方が誤っている可能性があります。

 例えば小さいものが集まってモノができていると仮定すると際限なく小さいものを追い続けなくてはならなくなります。これ以上小さいものがないとすれば、次はなぜその小さいものはそれ以上小さいものがないのかという問いを続けていくことになり、終わりがなくなってしまいます。

 ですから「なぜ」と問うことを一旦やめ、何が大切なのかを理由なしに感じ行動してみようと思うようになりました。親が亡くなったとき、なぜ亡くなったのかを問うても答えが出てきません。人はいつかは死ぬもの。理由はありません。であるならば、なぜと問うことはやめ私と親との関係はどうだったのか。親から学んだ大切なことは何か。そのようにアプローチの仕方を変えていこうと思いました。

問わないという対策

 何が大切なのかを軸に行動すると、相手が大切にしていること触れることができるようになります。この人は自己満足を大切にしている。この人は相手の気持ちを大切にしている。この人は自分の肩書を大切にしている。そのような理論以前の行動の源泉が見えてきます。この行動の源泉は、その人らしさと言い換えることができるかもしれません。

 そのうえで、私はこういうことを大切にしているので、こういう人と一緒にいたいという素直な気持ちが芽生えてきます。私がこの人といることで活動的になることができる。この芽生えの先に急に襲われる不安がなくなるとよいのですが、なかなかそうもいきません。昔ながらの癖で、つい「なぜ」と問い続けてしまうのです。時間は掛かるかもしれませんが、少しずつ不安を取り除いていこうと思います。



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