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うつ病と嫌われる勇気について

こんばんは。私はうつ病と診断されてかれこれ10年以上経っていますが、
いまだに治っておらず、常に不安と睡眠障害に苛まれています。

うつ病が酷くなると何もすることができなくなり、ただただ布団の上で重くなった体を横たえているだけの状態になります。頭だけは不安に対する思考をずっとしておりますが、体は全く動きません。よく体を動かして外に出て散歩をしたほうが良いと言われる方がいますが、それができるのであればしています。

頭の中は不安でいっぱいなので、こんな辛い状態から一刻も早く抜け出したい。こんなに辛い状態からは早くおさらばしたいと思うようになります。

体を動かして疲れることはできないし、睡眠もろくにできないわけですから、簡単な日常生活も送るのは困難なわけです。

私は若いときはうつ病になるなんて思いもしませんでしたし、どんな状態になるのかも分かっていませんでした。もしなったとしても直ぐに治るのかと思っていました。こんなにも厄介な病気だとは思いもしませんでした。

おそらく私の言葉や態度の受け取り方が偏っているのが原因なのでしょうが、そう簡単に変われるわけがないのであります。

昔、嫌われる勇気という本は私も読んだことはありますが、その中で「常に変わらない選択をしている」という文章が出てきますが、なかなか実感の湧かない言葉として私は受け止めています。

変わらない選択をしているのではなく、「変わらない選択を強いられている」という方が私にとってはしっくりくる表現です。自分の意志で主体的にコントロールできるということ自体に誤りがあるわけで、脳が勝手にコントロールしているのだとすれば、私の意志には決定権がないのです。

こういう話をするとよく決定論である決めつけられてしまいますが、決定論とは論理のように特定の何かが起きたから何かが起こるということであり、
脳が勝手にコントロールする話とは別の次元の話になります。

「昔学校でいじめられたから学校に行こうとすると頭が痛くなる」というのが決定論ではないと言いたい気持ちは分かります。頭を痛くすることで、学校に行かなくするように体が防衛反応を起こしているだから決定論ではないという論理です。この論理は論理的にはあっているのですが、論理的にしかあっていないのです。

人間の思考や感情は論理だけで構成されているのではなく、周囲の様々な刺激を体の各器官から受け取って、それを今までの経験と照らし合わせて
思考と感情を作り出します。

受け取った全ての情報を「〜するために」という話に繋がるようにすれば目的論になりますが、それではあまりにも盲目的です。もし目的論が正しいのだすれば、目的論が万人にとって唯一絶対の正解であることを証明する必要があります。ただその証明はあまりにも難しすぎる。
思考をするとき、必ずしも目的があるわけではありません。例えば、散歩をしようと思いたっとき、別に散歩を目的として散歩をしているわけではありません。何かふと歩きたいと思ったから散歩をしているわけです。走っていて怪我をして痛みがある時も、痛みという目的のために痛みの感情が湧いているわけではありません。ただ単に痛いのです。

人は何か絶対的な正解を必要としてしまいます。それだけ人は何かに依存しなければ自分を保てない弱い存在なのです。何か唯一絶対の思考というのが助けてくれる。その態度に対して違和感を持つ人は、どうしても何事にも悩み、そして病んでいく。

長々と書いてきましたが、結局のところ何をすれば助かるのか分かりませんが、何となく多くの人とコミュニケーションをとり、体を適度に動かし、ストレスが少ない日々を送ることができれば、助かるのかもしれませんね。

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