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エッセイ:涙目で語るマスキュリズム

おはようございます。

今回はいま流行りの「ジェンダー」について書いていきます。

まず、このテーマを論じるうえで、ぼくの立場をはっきりさせておこうと思います。ぼくは、男性かつ異性愛者であり(たまに同性に性的魅力を感じることはあります)、二十代前半までは「ジェンダー」や「性」についてとくに関心がありませんでした。大人になってからの恋愛遍歴としては、19歳から26歳まではつねにお付き合いしていた相手がいて、人数は二人です。いまは、彼女いない歴、約一年半の28歳です。ですので変にこじらせた女性観は持っていないと思います。

さて、「ジェンダー」はセンシティブかつ広範でつかみどころのないテーマですが、今回は、マスキュリズムの視点でお話していくつもりです。
*マスキュリズム=フェミニズムの主体を男性に置き換えた概念。

マスキュリズムは男性の権利を主張する立場でありますが、その多くはフェミニズムを嫌悪、ひいてはミソジニー(女性嫌悪)の感情から語られるのが一般的です。
そこで、あえてぼくは、男性の権利をフェミニズムと対立させるのではなく、「対比」させて、男の苦悩として書いていこうと思います。
「対比」という言葉をつかったのは、ぼくはこの記事を、女性嫌悪の立場で論じるわけではなく、また、「マッチョイズム」における男の苦しみを書いているわけではないからです。「マッチョイズム」は、あくまでも男社会で起きる事柄であり、女性との直接的な関係のなかで生じる悩みではありません。

あくまでも女がいて、かつ男がいる、という両性の分かちがたい社会的関係を前提にして、男女について現実的なことを言いたいのです。そのために、LGBTQという概念は一旦わきに置いて、古来より普遍的な男女一般の「ジェンダー」について考えたいと思います。

前置きが長くなりました。

ぼくが、マスキュリズムについてお話したいと考えたのは、男の苦しみは、『男はつらいよ』に代表されるように、笑いものにされるか、女々しいものと思われるか、あるいは無視されがちだからです(繰り返しますが、ぼくは、女と対立したいわけではありません。男女それぞれの、霊的ともいえる個性のちがいは、とても重要なものと思っています。表題のとおり、両性の調和が悲願という立場です)。
しかしながら、痛切なフェミニズムにくらべ、痛切なマスキュリズムの声はなかなか耳にしません。

なぜでしょうか?

大きな理由のひとつに、依然として「男らしさ」のプレッシャーがあげられると思います。
ぼくの観察では、たとえば性愛において、弱い女はときに有利であるが、頼りない男は不利だからと考えられます。いくら「ジェンダーフリー」が説かれようとも、弱い女が恋愛しやすいのにたいし、男はそうではないのです(弱さを利用して、母性本能をくすぐって恋愛関係にいたる策士もいますが)。
つまり、マスキュリズムを説くような男は、弱々しく、男としての魅力がない、女々しい男であるのです。だからこそ、『男はつらいよ』のように、ユーモラスにすることはできても、痛切には言いにくい。痛切に語る男は、それだけで男らしくないからです。
ぼくのように、マスキュリズムについて真剣に語ることは、少なくともこのお話を聞いてくれている異性からは、モテることを諦めることとある意味で同義なのです(笑)。この、内なる異性の目というジレンマや、マッチョイズム的な抑圧が、マスキュリズムにかんする主張のすくなさの原因と思われます。

女のなかには、もしもその人が男であったら絶対にモテないだろうと思われる人でも、恋人がいたります。しかし、男のばあいは、とくに中年期に差し掛かると、黙っているだけでは透明人間のように扱われるだけだったりします(今回は生物学的な観点から、生殖本能が人の行動を動機づけているという前提でお話ししています。また、逆に女のばあいは、むしろ「無視されない」ことによる、身の危険があることも重々承知しているつもりです)。

女は、世間が狭かったこれまでの歴史では、情報社会の現代とはちがって永らく絶対的な抑圧対象=被害者でありました。だからこそ、フェミニズムの主張は、まじめなものとして通用しうる。それにたいし、男は優位であり、加害的な立場にありますから、マスキュリズムの主張がまじめなものとして受け入れられないのは、被害者心理として感覚的にとうぜんでしょう。
たとえば、ぼくの会社で目にする、「女性社員、新入社員で悩みのある方は、抱え込まずに相談しましょう」と書かれた貼り紙。また、街に出ると「女性専用車両」や「女性専用コインランドリー」など……男が加害者・優位であることが前提となっています。じっさいに、そういう側面はあります。あぶない男は、そこらじゅうにいますから。しかし、なかには、性的に無害な男がいることも事実であり、そういう男こそ、女と「対比」された男としての生きにくさを感じているでしょう。

「性自認」は困難な問題です。その男が、どこまで男であるのか、それは言葉だけでどうとでも言える、(逆説的ですが)語りえぬものだからです。男としての苦悩を見せない、男らしい心を持った男がモテる。そのことを、男はみんな知っていますから、マスキュリズムは、ますます抑圧される。

あえて「モテない」という軽い表現をつかっていますが、ここでは「男らしくない」の同義語としてつかっています。このようにマスキュリズムを語るためには、モテることを放棄しなければならない。

しかしながら、女と「対比」された男としての苦悩を感じている男の多くは、モテないことへの恐怖によって、マスキュリズムを主張できないジレンマに苦しんでいるのが実情です。そもそも「モテない」=「男らしくない」という言い方が、どこか、ふまじめに聞こえます。

さらに生物としてのちがいに焦点をあてると、女は毎月生理があり、心身ともに否応なく歪められる。それにたいし男の生理は、射精切迫です。女は、出血と痛み、精神の不安的が自動的に訪れるが、男の実存は、サルトルの格言をもじると、

快楽の刑に処せられている

男を苦しめているのは、女の痛みとちがって、「快楽の要求」なのです。だからこそ、女にとって、男の苦悩はずるく、滑稽で、軽く、贅沢なものと思われがちです。じっさい、ずるいと思います。

ぼくはこの場で、男の苦悩をならべ立て、ミソジニー的な主張をするつもりはいっさいありません。それよりも、マスキュリズムが抑圧されている原因について、「モテな」くなること、そしてその「モテ」にかかわる奥底には、「快楽の要求」という、滑稽だが、実存的にはまじめなな事実が横たわっていることを告発したかったのです。このことを主張する人は、あまり見かけません。男の苦悩について発言できるのは、はなから女を嫌悪しているミソジニストか、『男はつらいよ』のように、それをユーモアに変えられる男らしい器量の持ち主にかぎられます。まじめに言おうとすると、大抵のばあいは冷笑されるか、無視されますからね。

しかたないとはいえ、それでも悩みは尽きないか弱き男たち。
女の下着には興味ないから、とにかく近場にコインランドリーを必要とする男もいる。男であること以前に、人として悩みを抱えているが、貼り紙には「女性社員、新入社員で悩みのある方は、抱え込まずに相談しましょう」と書かれているため、人に相談しにくい。相談しにくい、ということを言おうものなら、男らしさは剥奪され、モテなくなる。また男には、つねに痴漢など、性犯罪の冤罪リスクもあります。
極端なようですが、策士でもないかぎり弱い男はモテませんから、すくなくとも、そんなことをしてまったら、男として見られないのではないか、と怯える男は一定数います。

おそらくこの社会で、(誤解を恐れずに言えば)性の多様性以前に、そもそもいまだに問題が山積みである普遍的な男女のあり方について、いまいちど真剣に向き合おうとする流れは、五年以内には来るのではないでしょうか。五年以内と言ったのは、昨今、水泳選手や公衆トイレ問題にも象徴されるように、性的少数者と定義している人々への忖度といった、逆向きかつ見当違いの政策ばかりが目立っているのが現状ですから。

加害者・被害者意識の彼岸に「自由であるべきという不自由」から解放された、豊かで生き生きとした自由が待っているのではないでしょうか。

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