発明論入門の基礎
※この記事は2022年7月3日に開催した「退屈な未来に君の空想を ー発明ワークショップー<中高生限定>」の付録教材の内容です。
ここで展開される発明というものが何を指すのか、またどのようなものなのかを簡単に解説します。ここで紹介されている理論を自分なりの言葉や行動でたくさんの人に伝えていただければ幸いです。
発明って何?
現在の発明の定義は主に特許制度などの知的財産の保護の対象を指しますが、発明という行為はそれに限らず様々なところで成されてきました。例えば現状の定義だとアートや社会システム、概念、公共物などを扱うことができません。そこで私は発明の再定義が必要だと考え、発明について研究を行っております。
そしてそこで得た発明の定義に対する回答は以下のようなものになります。
こう表すとなんとも難しく聞こえるので、簡単に日常に即して表すと以下のようになります。
例えばエジソンは夜をなくすという想像に対して電球によってそれを実現しました。このように発明は想像する事を実現すること、つまり「思いをカタチにすること」に他なりません。
発明論の原理
発明について考察する発明論における原理はまさしく上記の発明の定義に従います。つまり発明論とは「なぜ想像することが実現できるのか、また想像したことが実現できないのにはどのような理由があるのか」を考察するものになります。発明論はそのような「想像することは実現できる」という原理に則って説明されるのです。
ではこの文章は何をもって正しいと認められるのでしょうか。まずこの文章の起源はSFの父、ジュール・ヴェルヌの名言に由来します。彼は「人間が想像できることは人間が必ず実現できる」と述べました(と言われています)。実際彼の書いた「月世界旅行」という月への冒険のお話は、NASAのアポロ計画実現の背景となりました。このようにして「想像することは実現できる」という文章が見出されました。
これに限らず、近代になるとPCの父、アラン・ケイが「未来を予測する最良の方法はそれを発明することだ」と述べました。これもまさしく未来の予測という想像に対して、それを実現していると言えるでしょう。このようにして文章の妥当性が検証されました。
では実社会でそれはどれほど有効なのでしょうか。その証明は非常に難しいです。なぜならこれは人々の観念の話であり、実証する材料が乏しいためです。ですので歴史を振り返りながら検証する、もしくは哲学的な立場で検討することが現在現実的です。一方で科学の発展も欠かせません。なぜなら発明それ自体を捉えるのには科学の考察が不可欠だからです。
発明を宇宙の立場で見てみる
発明は「想像した事を実現すること」と述べました。これには少しカラクリがあるのですが、混乱を避けて説明すると人間の立場に立って発明を説明する場合はそのような文章になります。しかし宇宙の立場、つまり人間を考慮しない、広義の発明を見てみると文章は変わります。宇宙の立場における発明とは以下になります。
複雑になるので深くは立ち入りませんが、通常発明とは何かと聞くと、「ないものをつくること」「新しい何かをつくること」という回答が出てくると思います。そのような回答を総称して「無から有への転換」と表しています。ではなぜこれが宇宙の立場かと言われると、「無い」という状態が人によって違うためです。
例えばアメリカに住むAさんはaというものを知らないとします。しかしある日、aを思いつきそれを発明しました。しかしaはとなりに住むBさんはすでに知っていたのです。それはBさんの知人である日本のCさんが日本ですでに発明していたためです。
ここで何が起きているのかというと、「無い」というのは自分と他者が知っているかどうか、日本とアメリカにあるかどうか、など人や国など切り取り方によって大きく変わるためです。ですので知的財産で扱われる発明とは知的財産の枠組みにおける発明ということになります。つまりその枠組みにあるかないかが重要なのです。
このようにして「無い」というのは非常に曖昧なものなのですが、それを宇宙的な立場、つまりビックバンによって物質が生まれ、星がうまれ、地球ができて、生命が生まれたというような事実の描写(歴史観)的な立場(存在するかいなか)に立てば、この宇宙においてそれが存在したかしないかという次元で見ることができます。この時、あらゆるものごとは無から有へと転換したと言えるのです。
無とは何か?
では無から有への転換はどのようにして行われるのでしょうか。ほんとに何も無い状態からいきなり何かが現れるという状態はなかなかに想像しにくいものです。例えばTVのリモコンなどは電池というエネルギーを入れることで、それを消費して使えるようになるのですから、何もないところからいきなり何かができるというのは想定しにくいはずです。
結論から言いますと、現代の宇宙論や無への考察が深い東洋哲学の立場に立てば、無の中でも全的無が優勢です。全的無とはあまりに混沌としていて、相対化できないことを指します。例えば今、目を瞑ると何もない世界へと変わると思います。これは本当はまぶたの裏を見ているのにもかかわらず、比較する対象、捉えられる対象がないくらい全体を覆われているためにそこには何もないと感じてしまうものです。この全体性によって生じる無こそが全的無になります。
宇宙論で言えば、ビッグバン以前、つまりビッグバンはどのようにして起こったのかということが考察されます。もし無から生まれたとするならば完全な無では説明が非常に難しいです。ですが近年の研究ではビッグバン以前では絶えず対消滅という現象が起きていたのではと考えられています。対消滅とは簡単にいうと性質の真逆なものが生じるたびに滅されることを言います。なので様々なところでそれが起きているのですが、全体としてはプラマイ0となり、無の状態だと言えるのです(厳密には正しくはないですが感覚的な説明で記述しました。詳しくはイフレーション理論や宇宙定数などを調べてみてください。)
また東洋哲学では、仏教に代表されるように無が追求されてきましたが、その説明においても全的無の表現がされています。中国の哲学者、荘子は世界は初め混沌だったと言います。混沌とはごっちゃごっちゃでその実態が見えない状態、まさしく全的無の状態でした。そこから名前をつけることで万物が生まれたと説明されています。
総論として、無とは欠如を意味するような無というよりも発明される際や宇宙創生、世界創生で用いられる無とは何かしらの全体的なエネルギーを持った無ということになります。難しい話になると思うので、完全な無はないんだというくらいに思っておいてください。
無はない、あるのは無限の可能性
無はないということが上記の文章でわかったと思います。では私たちにあるものは何か。それは無限の可能性に他なりません。今、無を探し求めて探求したわけですが、求めた先にあったのは全的無でした。つまり無を求めても返ってくるのは全的無、つまり無限的な無です。無限的とは無限の可能性があるということ。全的無における全はすべてという意味ですが、すべてを含むものというのは無限に他なりません。だからこそ不思議なことに我々は無を探求しても無限の可能性にぶち当たってしまうのです。なぜならそれが無の正体だからです。
ですので日常に即して言えば、この世界、そして私たちは常に無限の可能性に満ち溢れた存在なのです。そのような中から生まれたのですから。我々を縛る制約というのは、例えば物理法則などはあくまでそのような物理法則のある宇宙に生まれ落ちたにすぎません。別の宇宙にいけば、または疑似的な環境を作れば法則に縛られない世界があなたを待っているでしょう。
だからこそ、「おまえじゃ無理だ」とは見当違いな言葉です。無理は理屈がないという意味ですが、この場合「おまえでは理屈が通らない」ということになり、非常に不可解な文章となります。多くの場合は学力という理屈がおまえには通らないから無理という文脈になると思いますが、学力という無限の可能性の内の非常に小さな側面しか見ていない証拠でもあります。我々はこのようにして可能性を狭めないためにも、無限の可能性を常に自覚する必要があるのです。
本当の無「絶対無」
全的無の立場で無を解説しましたが、完全なる欠如としての無はないのでしょうか。実は哲学における存在論においては想定されます。これを絶対無と言います。絶対無とはあらゆる存在の秩序になります。つまり我々は通常それがあるかどうかは、ない状態と比較して判断すると思います。例えばスマホがないというのは、スマホがある状態と比較して生まれる存在のお話です。このようにして、何かがあるというのは裏を返せばないことを想定できるということなのですが、これを全ての事柄に適応したのが「絶対無」になります。全ての存在の無を説明する、だからこそ全ては存在するのです。(ニュアンス的な説明です、詳しくはぜひ西田の著作を読んでください)
これは哲学者の西田幾多郎の術語になるのですが、彼がこれに気づいた発想の源が禅でした。禅は座禅に見られるように、その精神的統一によって無の境地を体感します。西田が言うには、そこで体感できる無こそ絶対無だそうです。
ここで仏教のお話を少ししましょう。仏教は発明論と非常に相性が良いのですが、その理由は無(空)を真理として置いたことに由来します。全てのものが無であるという考え方は、一方で我々が体感するあらゆる物事はどのようにしてうまれたのかということに疑問を呈します。この疑問は無から有への転換としての発明に他なりません。だからこそ発明論も同じように無を真理として置き、仏教哲学を応用することで発明の正体を掴もうと試みます。
そしてみなさんもお聞きになったことがあるのではと思いますが、仏教でも象徴的な文句の一つである「色即是空空即是色」はまさに発明の全貌を明らかにしております。「すべてのもの(色)は無(空)である。そして無(空)とはすべてのもの(色)に他ならない」。絶対無の立場で見れば、お分かりでしょう。無とは全ての存在秩序なのです。同時に全的無においても同じように説明できます。あらゆる生成物がその無限の全体性(混沌)から生じていると言えます。つまり無に向き合うこと、それはあらゆる発明の第一の姿勢だと言うことができます。
発明は自分の拡張
ここではじめに戻り、「想像することは実現する」という立場の発明を再度見てみましょう。この文章は想像という主観的な世界(自分の世界)から客観的な世界(外の世界)に創造することに他なりません。このような自分と外の移動性こそが発明なのです。つまり発明とは常に自分を拡張している行為だと言い換えることもできます。頭の中にある想像を外で創造する。この外への拡張が発明になります。逆に外の世界を頭の中に持ってくる場合、これを発見と言います。我々はこの発明と発見のサイクルを回すことで知を拡張し、自分を拡張しているのです。
ですのでこれを応用すると様々なことが説明できます。今主観的な世界と述べましたが、この世界を構成する主観を複数人の組織に拡張してみましょう。つまり多くの人が同じような考えを持つ集団という意味ですが、彼ら集団の中だけにある想像を外の世界で創造することも同じく発明と言えるわけです。特に近代ではこのようなプロジェクト型の発明が多く出てきました。例えばインターネットの発明はその代表例です。インターネットの思想に共鳴した集団が様々な人の発明を通して大きな発明をなそうとしているのです。このようにして、発明のメカニズムは説明されます。またこのような考え方は仏教にも存在しており、空(無)の思想に対して、唯識思想と呼ばれております。やはり発明と仏教は非常に相性が良いです。
不可能はない、夢がある
以上、大まかですが発明論の基礎を紹介させていただきました。まだ研究中ではあるので、不明瞭な点があるかと思いますが対話を通してより解像度を上げていきたいと思っております。
最後に発明の意義について述べさせて頂くと、発明とは無限の可能性に気づくことだと言うことです。それは無の考察でみてきた通りです。そしてそれをいかになすのかということが「想像することを実現する」ということでした。複雑な社会問題や理不尽に追い込まれる今日、我々は本来自由な存在であり、何でもできる・何でもなれる無限の可能性を持つ存在なんだと伝われば多くの人がより自分らしく生きられるのではと思います。この窮屈で退屈な世界を空想で満たすためにも、発明への自覚が不可欠です。ぜひ一緒に啓蒙活動ができればと思います。
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