没頭するということ、三昧であるということ。それらはチクセントミハイによってフローなどと呼ばれたりする。あるいはゾーン。しかしそのような心理学的な枠組みとは別に、仏教、特に禅においてはシンプルに「なりきれ」とよく言うものである。あらゆる煩悩の透き通った世界がそこに現象する。
禅における無字の公案では無に成り切れと言われる。成り切るとはどういうことか。孫引きになるが、山田無門老師の言動を引用する。
以下は、参考記事。
人は何にでも「なりきる」ことができる。それこそが意識の原初的な存在形態なのだ。しかし私たちは「なりきる」ことが難しいように感じる。それはあまりに「なりきる」ことを特別視しているからではないだろうか。我々はすでに「私」になりきっているというのに。
我々は様々な舞台装置の上に生きている。換言すれば、社会の上でその役割になりきっていると言うべきか。学生は学生として、社会人は社会人として。すでになりきっているのである。そしてその役はいつでも舞台装置と密接である。家族という舞台装置では家族の役をこなし、友達という舞台装置の上では良き友を演じる。一方で新しい舞台装置は役が決まらずあたふたしたり、既存の舞台装置で役以外のことを演じるのは難しいものである。
「なりきる」とはもっと自然に、自分から行うものなのだ。つまり舞台装置が私の役割を決めるのではない。私がなりきるからこそ、舞台装置が現象するのだ。
しかし禅の目指すところはもっと深い。なりきる「私」というのは常に透明である。自我とかプライドとかそういう執着を取っ払った世界を指すのだ。それが自由なのである。ちょうど子供がごっこ遊びをするように、その世界は円融無碍なのだ。
従順になれと言っているのではない。舞台装置にふさわしい役を演じろとも言っていない。私というのを曝け出せというわけでもない。そういうものすら飛び越えて、今ここに集中するのである。今ここであなたは何に成り切るべきか。
観察対象者と観察者の関係をラポールと言うが、下手なバイアスを入れずに、あくまで自然な観察を行うためには、自然なラポールが必要なのである。自我を出しすぎてギクシャクとするか、あるいは相手側が配慮をしては自然な事象を摘み取ることはできない。自然なラポールにおいて目指すべき姿というのは透き通る私なのだ。
「なりきる」ことで私は自由になる。全ては思い通りのまま。世界で遊ぶ。自由自在の世界がそこに現象するのだ。
井筒はそれを内側から理解することと説明した。最後に彼の文章を引用しておこう。東洋哲学の理解の方法論についての説明の文章である。