【雑記】行動の離散性を連続化する

普通、人間の行動は不連続の連続というような事態で構成されている。

例えば今日は何をしたか。朝起きて、ご飯食べて、歯を磨いて、身支度して、学校にいって、帰ってきて、塾に行って、ご飯ん食べて、お風呂入って、寝る。みたいなことになるはずだ。

このように我々は一連のの動作で構成されている行動を<印象>というものを念頭に言語によって分節するのである。これは人間の認識的な土台が言語によって構成されていることを意味し、連続的なものを扱えないことを意味する。

しかし連続的なもの、そのものを扱えないのであって、連続的なものは生理学的な志向性に埋め込むことで扱うのである。例えば机にあるコップを取ってという動作は肘や手の角度、姿勢など人間が制御するあらゆる器官の出力量の調整によって行われているように見えて、結局のところ「コップを取る」という印象(象徴)によって無意識的(アフォーダンス)に行動が開始される。

あのカッシラーの名著「人間:シンボルを操るもの」とあるように我々はシンボリックな文化活動の中で行動をしている。そのひとつひとつの印象は極めて離散的であるが、そこをオートマティックにこなしてしまうのが人間というものだ。

ここでやる気が出ないという問題にひとつの見解を与えることができる。物事を分節しすぎると(離散化しすぎると)、やることの単純さ以上に大きく見えるものである。いちいち朝起きたら目覚ましを止めて、シーツを直して、カーテンを開けて、、、と作業量を明記するとはじめの動作は踏み込めにくい。だからやるのが億劫にならない程度に、必要最低限を印象化して、あとはオートマチックに任せるべきだろう(何時に家を出ると決めて、その間の動作は即興で行う)。だがしかし充実した1日を送るにはそのような綿密なプログラムが必要なのももっともだ。だからルーティンというものがあり、象徴形式-朝のルーティンというオブジェクトに一連の動作プロトコルを内蔵し習慣化することは最初に求められるだろう。このイメージが何より大事である。

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