【雑記】SFCにおける冷笑主義

別にそんなになにか書くことはないが、メモ書き程度に書いておく。一時期、というより断続的にSFCにおいて「冷笑主義」という言葉が話題であった。しかも私が驚いたのは入ったばかりの1年生が「SFCでは自分がやりたいこととか言える環境ではない」と言っていたことである。入学初年時にそんな抑圧を受けるのか、と私は思ったが、振り返れば私もSFCに失望したのは入学した年の夏休みあたりだった。あの時、SFCでどういうことやりたいのだとか、好きなことあるのとか聞いた時に「誰もが好きなことややりたいことがあると思わないでくれない?」と逆ギレされたのを覚えている。それに賛同するマジョリティがなんとも居心地を悪くした。それに加え、あえて目に見える形で頑張ることはダサい、要領よくこなすことが大事、酒・タバコ・女・ギャンブルこそ大人の嗜み、などと誇らしくSNSにアップするのが目につく。しかしよくよく観察してみれば、そこにつく多くのいいねは賛同以上にひとつのコミューンなのである。互いに自分のコンプレックスを慰め合っていることに気づくのはなかなか難しかった。(この時のエスノグラフィー的な記録は公開していないが控えてある)

さてそのような現象が起きている背景にSFCのブランドの確立はよく挙げられる。今までは本当によくわからない大学だったゆえに変わり者しか来なかった。しかし30年も経てば、SFCという名前だけでそのブランド性を理解する企業も増え、起業し上場した企業が目立つようになると、SFC卒が就職における大きなアドバンテージになるようになった。何よりもビリギャルに代表される、慶應ブランドが簡単な入試方式で手に入る方法などが学歴競争社会にSFCを介入させる結果となった。このようにしてSFCに来る人は変な人から普通の人が増えるようになる。そして変な人は独自で活動するゆえに、SFCから離れて活動するようになる(SFCで活動する理由がない、今までは変な人と会えたがマジョリティは普通の人だ)。よって、SFCの生態系を構成するのは普通の人になるわけである。ここでいう普通の人とはサークル活動を頑張って人生最後の夏休みたる大学の青春を謳歌し、それらと慶應ブランドを引っ提げて就職活動を頑張りたいという人たちのことである。誤解してほしくないが別に私はそれを悪いとは言っていない。悪いのはそこを戦略的に支えられなかったSFCの運営局だ。よって、破滅論にも書いたように、SFCに来る意味はもうない。変な人は、変な人が活動できる場所が渋谷や品川、下北沢などの都内、そして海外大学などにあるためそちらへ流れる結果となった。

結局、SFCの冷笑主義というのは、数的な構図と一緒に、その多数がコンプレックスを抱えていることに起因していると考える。私がAO入試で合格した人に何に興味があるのと聞けば、AO入試なんてただの慶應ブランドを手にいれるための手段でしかない、と言われた時にはSFCという存在に<裏切られた>と深く傷ついたものだ。ただでさえ、支えがない変な人をSFCは見捨て、擬似AO勢は足をひっぱり、大人ぶる大学生コンテンツによって威張り散らかすことによって、変な人の支えはずたずたになる。彼の実存はこうして多数に取って変わっていくのだ。

全ての人は分かり合えると考えていた私もこのような現状をみると我が人生のノイズとしか思えなくなってしまうのだ。どうか人々の動機を奪っている、自由を侵しているを、彼らに、そしてSFC自体に自覚してもらいたいものだ。

よって、変な人たちはSFCに環境的メリット他がない限り、避難することをオススメする。

追記:
そういったマジョリティ側に立って、そこで交わされている会話を記述してみた。

ただただ胸糞悪い。それを放っておくSFC自体が憎たらしい。我々は本気で世界を変えに来ている、一生懸命に生きているにも関わらず、たかが大学生だとして舐め腐っている態度が許せない。

別に私は遊ぶことが悪いとか大学生は勉学をすべきだとか言っているわけではない。私だって遊ぶ。遊びこそ文化の骨頂である。たが私はこのSFCという存在が当初の目的から離れていることを自覚していないことに腹が立っているのだ。

本気高等教育を実現しようとする気はあるのか。やる気がないなら滅べば良い。言い訳などいらない。

参考

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