【雑記】記録における参照可能性が物語を創り出す

あらゆるメディアを<記録する>ことの意義を簡単に記述しておこうと思う。

さて、今ここで「記述しておこう」という言葉を使ったように、人々は何かを記録することをひとつの生業としてきた。ラスコーの壁画を持ち出してから始まる、いわゆる「メディア論」に代表される問題系である。ここからわかるのは、記録するという行為が、時空間を超えた伝達を可能にするということである。

さらに私はここに<参照可能性>という言葉を提出してみたい。参照可能性とは、ある記録が次の媒体へと伝達される可能性の有無について表した言葉である。参照可能性に対して、<参照不能性>というものがあるのだとするなら、記録をしないという行為が参照不能性を極限的に創り上げていると言える。ここであえて<極限的に>と言ったのは、外部メディアに記録されていないとしても、ある当人の身体痕跡が存在する限りは、その思考を読み解くことが可能なのではないかという一種の生命倫理的な立場に立っているからである。もっとも、その記録を取り出すにはまだまだ時間はかかりそうだが、精神分析が無意識を取り出したように、また近年のBMI技術の躍進もあり、観察技術のブレイクスルーが起これば、決して遠い未来の話ではなくなるだろう。(こんなことを言うとベルクソン主義者には反論されそうだが)

とにかく、外部メディアに記録するという行為は参照可能性を原点に引き出していると言える。この性質があるゆえに、痕跡は考古学を可能にし、証拠は犯罪の所在を明らかにするのである。それは極めて事実に近い形の想像力を引き起こすのだ。

参照可能性が引き起こす想像力は観察者の想像力の共鳴する。それは観察者が異なる記録を参照して、ひとつの物語を創作する力になることを指す。例えばある研究論文Aと研究論文Bはそれぞれ参照可能性を持っているが、このAの内容とBの内容が観察者の想像力によって引き合わされる時、それは新しい論文(物語)へと昇華される。同様に記録は想像力を引き起こす。昔撮った子供の頃のビデオを振り返って(参照して)、今の自分がかくあるべきかという物語を創ったり、LINEのメッセージを買い物のメモがわりにしていれば、前回買った商品と同じ商品を買いたいと思った時に参照され、同様のものを買うという物語が創作される。

それは広く文芸や運動論もそうだ。研究論文がある潮流の論文群をサーベイ(参照)するように、また文芸がある時期の作家群を参照するように、ポストコロニアルやフェミニズムが過去の記憶(が残る記録)を参照し、運動記憶の妥当性を主張するように、記録に付随する参照可能性は観察者の想像力次第でどのような物語も創作することができるのである。

もっともその創作された物語自身も参照可能性を持つということや参照可能性はその公開範囲によって異なるということなどもある。しかしここで言いたいのは、人間にとって記録する(参照可能性を持たせる)という行為が次の行動を引き起こす契機になっているということを主張したいだけだ。これ以上はまた別で議論しよう。

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