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ファンサービスをしない監督 落合博満は野球ファンに何を与えたのか 第15章

 第15章 2006年の日本シリーズ敗北から生まれた名言「勝つことが最大のファンサービス」

 稀代のエンターテイナー新庄剛志の引退祭りとなった2006年の日本シリーズに敗れた中日。

 戦力では勝っているはずなのに敗れたという結果は、批判となって落合に降り注いだ。

 世間やマスコミは、新庄が様々なパフォーマンスで自軍の選手たちのアドレナリンを放出させ、ファンサービスをしまくって日本一になったため、落合のファンサービスの少なさを槍玉に挙げたのだ。

 そのとき、落合は、こんなコメントを残している。
「監督の仕事って何なんだと考えた時に、それは勝つことだと思っています。ファンサービスと言われますが、どこですりゃいいんだ」(2006年11月29日 東京中日スポーツ)

 私の知る限り、これがあの有名な「勝つことが最大のファンサービス」という名言の起源だと思う。

 確かにファンサービスやパフォーマンスは、ファンや選手の気分を高められる。しかし、それは、うまくはまればいいが、はまらなければ結果に結びつかない。

 日本ハムも、前年の2005年はリーグ5位に終わっているし、新庄引退3年後の2010年にはリーグ4位に終わっている。
 確かに新庄は、自らが牽引者となって、強くて人気があるチームを作り上げたが、それは、一時的な盛り上がりであって、永続性のあるものではなかった。

 つまり、安定した強さと人気を得るためには、勝ち続けるチームを作り上げるしかないのだ。

 安定した強さには、安定したファンがつく。弱くても地元のファンは応援するが、地元以外のファンは、強くなければファンになってくれない。

 落合は、少年時代を秋田県で過ごしている。落合は、その当時を振り返りこう語っている。
「俺は子どものころ、巨人ファンだった。強かったからだ。勝利ほどファンの心を震わせるものはない」

 容易には球場に足を運べない地方のプロ野球ファンであった落合にとって、強いチームこそ、応援したいチームだった。
 おそらく、その信念が監督になってからも自らを突き動かしていたにちがいない。

 強ければクライマックスシリーズ、日本シリーズの観客動員、グッズ販売、その他の経済効果が絶大だ。今は球場へ来られない全国の人々がネットでグッズを買える時代だ。

 強いと選手の評価だけでなく、コーチや裏方たちの評価も高まる。その後の移籍やセカンドキャリアに大きな好影響を及ぼす。
 弱くても、効果があるかどうか分からないファンサービスを頑張るより、遙かに大きなメリットがあるのだ。

 落合の「勝つことが最大のファンサービス」発言は、多くの人々が誤解しているが、あくまで監督個人としての任務について語っただけだ。

 一般的に選手や球団全体が行うファンサービスを否定しているわけではない。

 その証拠に、落合は、全国区の人気となったドアラのファンサービスを認めていたし、英智や小田幸平のふざけたヒーローインタビューについて否定的な発言はしていない。

 監督は、ファンサービスを数多くしても優勝できなければ文句を言われるし、優勝してもファンサービスが少なければ文句を言われる。
 ファンサービスの質や量は、どれだけやれば世間が満足するかなんて、基準がないから不明確だ。

「どうせ文句を言われるんだから勝って文句を言われよう」

 落合がいつかのインタビューで語ったこのコメントこそ、優勝という誰もが認めざるをえない結果にのみ、絶対的な価値があると悟った名言だろう。

 2006年は、新庄のファンサービスを目の当たりにして日本シリーズに敗れた落合だが、自らの信念は決してぶれなかった。

 2007年、落合は、勝てるチームを目指すため、まず外国人選手の入れ替えから始める。

 2007年3月には35歳となるため、守備と打撃で衰えが見え始めていたアレックスに変わって、中日は、韓国のスター選手李炳圭を獲得する。中日球団は、以前から韓国人選手の補強に積極的で、過去には宣銅烈、サムソン・リー、李鍾範らを獲得している。その延長線上にある獲得だった。

 中日入団後、落ちる球に滅法弱く、守備もアレックス以下で、日本野球に適応しきれなかった李の成績を考えると、これが補強だったと言うべきかどうかは迷うが、中日球団が補強したのは、李のみだった。

 しかし、意外なところから新たな補強が生まれる。近鉄・オリックスで活躍したスター選手中村紀洋が自由契約選手となっていたためである。

 中村は、オリックスの主砲として年俸2億円を稼いでいたが、その年の試合中に左手首を故障して不振に陥った。挙句の果てに、シーズンオフにはオリックスから野球協約の限度40%を超える60%減の年俸8000万円を提示され、契約交渉が決裂したのだ。

 自由契約となった中村の獲得に動く球団はなかった。金髪だった近鉄時代の言動、メッツとの契約決裂、そして、オリックスとの契約決裂といった悪い評判が中村獲得を見送らせたのである。

 落合もまた、中村獲得には慎重だった。なぜなら既に三塁には若手の森野将彦がレギュラーとして順調に成績を伸ばしていたからである。

 この年は、日本ハムの小笠原道大も、FA宣言で他球団移籍を目指していた。
「師弟関係にある落合がいる中日へ移籍するのでは」
 そんな憶測も流れた。しかし、落合は、三塁には既に森野がいるため、獲得に動かなかったのだ。

 中村もまた、落合の打撃技術に憧れており、落合から直接指導を受けた経験もある。小笠原と同様、師弟関係だった。

 とはいえ、中村の場合は状況が違った。巨人が大金を積んで獲得に動いた小笠原とは異なり、中村は、このままいけば野球浪人が確定する状況だった。そして、キャンプも中盤にさしかかろうとしていた2月12日、落合は、ついに重い腰を上げる。

「才能ある選手から野球を奪ってはいけない」

 それが理由だった。落合は、中村を中日のキャンプにテスト生として参加させ、入団テストを経て育成選手として年俸400万円で契約したのである。

 この決断は、落合が師弟関係にある中村の技術を認めていたからこそである。野球浪人をさせるのはプロ野球界にとって大きな損失だ、という心情が獲得慎重姿勢から獲得強行へと動かせた。

 そして、皮肉にも、その決断こそが相反する2つの結果を生んだ。1つは、中村が日本シリーズMVPになるほどの目覚ましい活躍を見せて、中日に53年ぶりの日本一をもたらしたことである。

 もう1つは、中村と森野を両方レギュラーで起用するために森野を外野に回し、レフト・センター・ライト・サードとめまぐるしく起用しているうちに、2008年5月、森野が左ふくらはぎ肉離れという大きな故障をしてしまい、その後の選手生活に影響してしまったことである。

 落合自身も、あとから振り返って、森野の故障を「大きな代償」と述べているが、あのとき中村獲得に最後まで慎重だったのは、森野に及ぼす影響を懸念していたからだろう。

 結果的に懸念は現実のものとなったが、落合政権唯一の日本一を勝ち取ることもできた。失ったものも大きかったが、得たものも大きかった。

 あの決断が正しかったのか、誤っていたのか。そこには、結果が出た今も、まだ答えはない。ただ、言えるのは、落合が中村と森野という2人の選手に対する強い思いやりが生んだ苦渋の決断だったということだけである。


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