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ファンサービスをしない監督 落合博満は野球ファンに何を与えたのか 第9章

 第9章 敗北感なき敗北~2005年~

 交流戦は、12チーム中9位。想定以上の惨敗だった。横浜より下位に沈み、中日より下にいたセリーグチームは広島だけだった。落合は、その後、2度と「交流戦は5割でいい」という発言はしなかった。

 翌年以降、落合は、この年の反省を踏まえて常時10人を超えるスコアラーにパリーグ6球団を徹底的に研究させる。

 落合が名将と呼ばれる所以は、2度と過去の失敗を繰り返さないように過剰なまでに手を打ったからだ。

 その甲斐あって、2006年以降は交流戦でも安定した成績を残していくことになる。

 しかし、この2005年だけは、もはや取り返しがつかない失敗となってしまった。何せ中日は、5ゲーム差をつけたセリーグ首位で交流戦に入りながら交流戦終了後には阪神を2ゲーム差で追う展開となったからだ。

 実に交流戦だけで7ゲーム差をつけられた計算となる。

 それでも、逆転でリーグ優勝を果たすチャンスがなかったわけではない。中日は、8月に2度、首位阪神に0.5ゲーム差まで詰め寄っているからである。

 1回目は、8月9日の直接対決に勝利して8月10日を迎えたときだ。この日も、直接対決で、中日は、先発朝倉健太、阪神は、先発福原忍で始まった。ホームのナゴヤドームでの試合であり、追い詰めた中日が優位な状況のはずだった。

 しかし先発朝倉が金本知憲に初回から3ラン本塁打を浴びるなど、5回4失点と崩れ、3-5で試合を落とす。

 そして、2回目は、8月31日に中日が直接対決で勝利し、0.5ゲーム差で9月1日の直接対決を迎えたときだ。この試合は、敵地甲子園で行われた。

 中日が先発山本昌、阪神が先発下柳剛で始まり、中日が幸先よく初回に1点を先制する。しかし、3回に山本昌が今岡誠に逆転3ラン本塁打を浴び、その後もリードを広げられる。結局、1-8で大敗してしまった。

 この2試合は、勝っていれば、中日が逆に0.5ゲーム差をつけて首位だっただけに、ペナントの行方を占う重要な1戦と言えた。ここで勝っていても、リーグ優勝できたとは限らないが、勝っていれば、少なくとも最終的に大差がつく展開にはなっていなかったはずである。

 9月1日の敗北後、阪神が加速したのに反し、中日は足踏みを続け、結局9月29日には阪神に8ゲーム差をつけられ、リーグ優勝を奪われてしまう。この年の阪神は、J・ウィリアムズ、藤川球児、久保田智之が台頭。いわゆるJFKの強力3枚救援陣が誕生し、その勢いは最後まで衰えなかった。

 しかし、仮に交流戦の7ゲーム差がなければ、どうなっていたか。結果が出た後に、過去の過程を語るのは野暮だが、計算上は阪神がリーグ優勝を決めた9月29日時点でもまだ0.5ゲーム差しかなかったことになる。

 それ以前に、8月31日の段階では6.5ゲーム差をつけて首位を走っていた計算になり、阪神が勢いづいてリーグ優勝に突き進む展開にはならなかったはずだ。仮に2005年の交流戦が2004年以前のように存在しなければ、中日が連覇を果たしていた可能性は限りなく高い。

 この年、阪神が優勝を決めた9月29日までの中日のシーズン成績は、77勝61敗。交流戦の成績を除けば62勝40敗。交流戦抜きで見れば、22の貯金を保持していたことになり、中日が優勝していてもおかしくない成績であったことが分かる。

 獲得したタイロン・ウッズも、打率.306、38本塁打、103打点と四番打者として申し分ない働きを見せた。

 果たして、2005年の中日は、敗北だったのか。

 その問いに私は、敗北ではなかったと答えたい。

 セリーグでの戦いは、限りなく勝利に近い成績を残した。にもかかわらず、パリーグとの戦いでは惨敗した。

 まさに、中日は、敗北感なき敗北を喫したのである。それだけに、交流戦に入る前の失敗は、あまりにも代償が大きかった。

 落合は、ナゴヤドームでの最終戦後、選手の健闘を称え、ファンに対しては、V逸を自らの責任と謝罪した。そして、2006年に向けての準備をすぐに進めていくことを誓った。

 どのチームよりも、早く2006年に向けて動き始めた中日。完全制覇のため、一切の妥協はなかった。


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