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ファンサービスをしない監督 落合博満は野球ファンに何を与えたのか 第7章

 第7章 足りないところを補う初めての補強 ~2005年~

 右の日本人四番打者を育てる。それは、落合が就任時に発した公約の1つであった。それは、いわば三冠王を3回獲得した落合自身の後継者を作ることでもある。

 外国人選手でも右の四番打者は任せられるが、外国人選手の日本での野球生活は、一部の例外を除いてほとんどが5年に満たない。

 安定して四番を任せられることを最優先で考えれば、日本人の若手の中から四番打者を作り上げることである。数多くの右打者がいる中日で、その中から四番打者を、という理想は、選手を横一線でスタートさせた落合政権にとって大きな活性化材料となった。

 現有戦力の中から右の四番打者候補として、落合は、田上秀則、高橋光信、桜井好実、幕田賢治、仲澤忠厚、前田章宏らに期待をかけた。しかし、若手の中から四番打者を短期間で作り出すのは容易ではない。

 それまでくすぶっていた選手が突然開花することもないわけではないが、通常は、2軍で実績を残し、1軍で徐々に出場機会を増やしていく。そこから、レギュラーを勝ち取って大打者へと成長していくのだ。

 落合も、それを分かっていながら、若手を成長させるため、あえて右の四番打者という最大の目標を掲げて鼓舞したのである。

 結局、2004年のシーズンを通して、若手の中から日本人四番打者は現れなかった。四番打者は、既に実績を残してきた左打者の福留孝介に頼るしかなかった。福留が死球による骨折で離脱後は、右打者ではあるが外国人のアレックス・オチョアが担った。

 とはいえ、福留も、アレックスも、四番打者というよりは、三番か五番で力を発揮する中距離ヒッタータイプの打者であった。

 落合は、監督就任1年目からいきなりリーグ優勝を果たしたため、2年目から中日は、リーグ覇者として研究され、追いかけられる身となる。

 追うよりも追いかけられる方がしんどい。

 勝負の世界でよく語られる言葉だ。ならば、リーグ優勝に甘んじず、さらにチームを強化する必要がある。
 落合は、そう考えていた。

 2004年は、自らの目ですべての選手の実力を見極めていないからこそ、解雇と補強を凍結して1年間、様々な選手を起用して試した。その結果、落合は、2004年の反省を踏まえて、練習の強化だけでは、まだ足りないと考えた。

 そこで、落合は、解雇を解禁するとともに、チームに欠いている右の四番打者補強を進めたのだ。

 そして、獲得に動いたのが、タイロン・ウッズである。ウッズは、横浜で四番を打ち、本塁打王を獲得しながら複数年契約が叶わず退団していた。突出した飛距離を誇るスラッガーでありながら、広角に打てる技術を持ち、打率もいい。2003年から2年連続で40本塁打以上を記録しており、まさに落合が理想とする右の四番打者である。守備に不安こそあったものの、それをカバーして余りある打撃は、チーム最大の得点源となる可能性を秘めていた。

 私が2004年の日本シリーズを観ていて感じたのは、西武の四番打者アレックス・カブレラの圧倒的なパワーと存在感である。中日にはないものが西武にあり、西武は、カブレラの働きもあって日本一となった。

 落合は、2005年に理想のチームを作り上げるため、ひとまず右の日本人四番打者を据える目標を先延ばしにした。

 右のアメリカ人打者ウッズを四番に据え、球団史上初となるリーグ連覇と51年ぶりの日本一を狙いに行く強い姿勢を示したのである。

 私は、ウッズ獲得の発表があったとき、中日のセリーグ連覇を信じて疑わなかった。
 おそらく2004年のセリーグ独走優勝を目の当たりにした中日ファンは、セリーグ連覇どころか日本一も確信していたのではないだろうか。

 しかし、戦力が上がったから勝てるわけではないのがプロ野球のペナントレースである。

 2005年は、落合にとっても、ファンにとっても想定外の事態が待ち受けていた。


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