ファンサービスをしない監督 落合博満は野球ファンに何を与えたのか 第4章
第4章 抑えに岩瀬を抜擢した落合博満~2004年~
私が特筆したい2つ目のサプライズは、岩瀬の抑え転向である。
2003年の中日は、前半がギャラード、後半には大塚晶則が主に抑えを務めていた。しかし、ギャラードは、首脳陣との確執から2003年中盤に横浜に移籍、大塚も2003年オフに大リーグ移籍が決まり、抑えを務める投手がいなくなった。
絶対的な抑えギャラードがいた中日が近鉄の抑えだった大塚を獲ったことで、チーム内のバランスが崩れ、1年で両方がいなくなってしまうという失態を招いた。現代野球にとって抑え不在は、非常事態である。
こんなとき、通常であれば先発投手の1人を抑えに転向させる、あるいは、他球団やアメリカから抑えを獲得する。
そんな手段が主流だった。
しかし、中日の場合、落合が現有戦力で臨むことを決めており、外部からの補強は考えられない。
そうなると、先発投手の1人を抑えに転向させるというのが通常の手段ではあったが、落合は、それをしなかった。
1999年から5年間にわたって中継ぎをしてきた岩瀬を抑えに抜擢したのである。
当時、岩瀬は、抑え向きとは思われていなかった。ギャラードや大塚のような剛速球や落ちる球があるわけではない。高津のようなサイドスローの変則フォームでもない。揺れ動く直球と真横に曲がるスライダーを駆使して絶妙のコントロールで打ち取るタイプである。性格も、優しくて穏やかだ。
同じチームには剛腕タイプの落合英二や岡本真也がいるため、彼らを抑えに起用する選択肢もある。
それでも落合が岩瀬を抑えに抜擢した理由は、「最も打ちにくい投手だから」だった。確かに、岩瀬は、それまで通算防御率が1点台であり、中日で最も打たれない投手である。理論的には抑えにふさわしい。
落合は、評論家時代からギャラードや大塚よりも岩瀬を高く評価していた。仮にどちらかが中日に残っていたとしても、いずれは抑え岩瀬の決断をしたはずである。
しかし、抑え岩瀬の船出は、順風ではなかった。
岩瀬は、2004年の開幕直前に左足小指を骨折。前半戦は極度の不振に陥って防御率は一時、5点を超えたほどである。
5月11日には延長10回に岩瀬が決勝打を浴びて敗れ、チームも最下位に転落する。その3日後にも9回に決勝打を浴びて敗れる。
他球団であれば、間違いなく抑え失格の判断を下しただろう。しかし、落合は、岩瀬の降格を否定し、その後も抑えの座から降ろさなかった。故障が完治し、抑えの役割に慣れれば、必ず結果を残すことを見抜いていたからである。
落合の期待通り、岩瀬は、6月以降、立ち直って抑えの座を自分のものにし、抑え岩瀬は、落合政権の8年間の象徴となった。2003年まで通算6セーブだった岩瀬は、2004年からの8年間で実に307セーブを稼ぎ出した。
その間、プロ野球記録となるシーズン46セーブ、前人未到の3年連続40セーブ以上、5度の40セーブ以上。
ついには通算300セーブまで達成したのである。
落合は、年に何回か岩瀬が打たれて負ける試合があると、決まってこうコメントした。
「岩瀬で負けたら仕方ない」
どんな状況にあっても決して岩瀬を責めない落合に、岩瀬は、落合退任後、感謝の言葉を述べている。
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